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2699. 未知が既知に変わるとき


昨夜芸術と人間発達について考え、今朝方そのテーマについて簡単に自分の考えを付け加えておいた。このように同じテーマを何度も訪れ、そのたびごとに自分の思考空間に浮かんだことを文章として書き残しておく。

考えが全く進まなくてもいい。たった一行しか書くことがなくてもいい。その一行が後々どれだけ大きな差となって現れてくることか。

書くことによって自分の考えを広く深く展開させていく。考えを書くことは、その瞬間に一つの形として考えが凝固されることを意味するが、凝固されたものがまるで生き物であるかのように自己創出を始めていく。

まさに昨日に芸術と人間発達について書き留めた後、私は就寝をしただけだが、今朝方起きてみると、考えが自己展開をしていたのだ。そこでまた少しばかり文章を書き留めておくということを行った。

書くことが尽きないという状況。それを見るに、私の中で探究項目や自己そのもの、そして人生そのものが深まっていく大きな余地を確認することができる。それを確認できてとても嬉しく思う。

人生はこれから始まる。思索も探究も実践も、何もかもがこれから始まろうとしている。その始まりに向けたスタート地点に向かいつつあることを嬉しく思う。

人生は全くもってこれからであり、ようやく自分の人生が始まろうとしている。この感覚は欧州で生活する日々が積み重なっていくごとにその強さを増していく。

欧州での三年目の生活の後に待っている自分とその人生が今は全く想像できない。自己も人生も未知であること。それはすなわち深まりの余地だと言えないだろうか。

深まる余地が大きければ大きいほど、この先に待っている自己や人生が見えなくて当然なのではないだろうか。海を思い出してみればいい。浅瀬の底はすぐに見えるが、深海の底はすぐには見えない。

両者は深さが違うのだ。深ければ深いほど、その先に待つものは見えなくて当然なのである。この原則は自己及び人生にも当てはまるのではないかと思う。

今、全く見えない自己と人生に向かって歩みを続けている。自己と人生は本当に興味深い。

実は自己と人生は常に見えているのだ。常に見えているのだが、その深さは目には見えないのだ。

では、今見えている自己と人生は一体なんなのだろうか。それは浅瀬を見ている自分と浅瀬そのものなのだろうか。

仮に今見えている自己と人生を、見ているものと見られているものの区別を超えて、大海とみなしたらどうだろうか。あるいは、大海、その上にかかる空、近くにある山などを含めた全体と捉えたらどうだろうか。

自己と人生に関する未知性はこのように拡大していく。それでいて確かなものが今この瞬間の自分の内側に芽生えていることにも気づく。それを大切にしなければならない。それを携えて今日も一日を過ごしていく。

未知が既知に変わる瞬間。それは至ってシンプルだ。未知に向かって歩き続け、未知を通り過ぎていくこと。そこで未知だったものを振り返れば既知になっている。

未知が既知に変わるというのはこんなにシンプルなことなのだ。欧州での三年目の生活の後に待っている自己と人生が今この瞬間に未知であるならば、そこに向かって歩けばいい。歩き続け、ふと振り返ってみたときに、それは既知なものとして姿を現しているだろう。

欧州での三年目の生活は、この二年間を凌駕するほどに読み、書き、作る。学術機関に所属するという制約から解放され、自分の望む探究と実践に望むだけ時間を充てることができる。今年一年間は歩けるところまで歩いてみようと思う。フローニンゲン:2018/6/14(木)06:58 

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