どうやら完全に外は晴れたようだ。早朝に空を覆っていた雨雲が今はうっすらとした雲に変化している。
優しいそよ風がフローニンゲンの街を時折駆け抜けていく。その風の流れに乗って、小鳥たちのさえずりが聞こえて来る。
ここ最近はバッハではなく、モーツァルトのピアノ曲を聴いている。ほぼ毎日、一日中モーツァルトを聴くような状態にある。この状態はもうしばらく続くだろう。
モーツァルトのピアノ曲の音色と小鳥たちのさえずりがどこか似たような感覚質を持っていることに時々気づく。小鳥のさえずりとモーツァルトの曲を同時に聴くその瞬間に、私の心は何か満たされたような感じになる。
今日もそのような瞬間がたびたび訪れるだろう。実際に今もそのような状態にある。
心が満たされた形で日々を過ごしていくこと。これがどれほど重要なことだろうか。何となれば現代社会は、常に渇望を私たちに強いるのだから。
日々の些細な事柄には心を満たすもので満たされている。まさに、満たすものが満たされているのである。
心を満たす世界の中に溶け出しているかのような感覚がする。充満した世界に溶け出すことによって、自己が充満したものになっていく。
世界も自己も最初から充足したものであるということに気づくことはそれほど難しくない。現代社会から忘れ去りつつある諸々の重大な真実に気づけば。
昨夜から、先日アムステルダムで訪れたヴァン・ゴッホ美術館で購入したゴッホの生涯を描くドキュメンタリーDVDの二回目の視聴に入った。今回は英語ではなく、あえて日本語で解説を聴いている。
ゴッホの生涯からもたらされる励ましには多大なものがある。ドキュメンタリーを見ながらつくづく思っていたのは、ゴッホには伝えたい明確なものがあったのだ。
絵画の技術がそれほど洗練されていない当初から、ゴッホの内側には表現しようとする何かが常に存在していたのである。ゴッホが絵描きになる前に、彼は牧師になろうと勉強や実践に励んでいたことは有名な話である。
弟のテオに宛てていた手紙も、ある時を境に突然宗教的かつ道徳的なものになり始める。ゴッホの内側にあった強烈な信仰心と信念。その二つが相まって、牧師の道を断念し、絵描きを志したゴッホは信仰心と信念を元に、内側にある表現を待つものを力強く外側に表現し始めた。
ゴッホの手紙を改めて読み返していこうと思う。これまで購入した六冊のゴッホの画集についても繰り返し読んでいこうと思う。
来月の中旬もしくは来月末に、オッテロー村にあるクレラー・ミュラー美術館を訪れる。昨年の秋に引き続き、今回が二度目の訪問となる。
デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園内にある秋のクレラー・ミュラー美術館はとても美しかった。美術館のみならず、それを取り囲む自然がとても美しかった。
夏のデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園とクレラー・ミュラー美術館はどのような表情を見せてくれるのだろうか。今からそれへの期待が高まる。
クレラー・ミュラー美術館はこれまで何度も言及しているように、アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館に次いで、ゴッホの作品を世界で二番目の数ほど所蔵している。昨年クレラー・ミュラー美術館訪れた時、所蔵されている作品の豊富さには驚かされた。
どの作品が自分の足を止め、自分を虜にしたかを今でも覚えている。今回の訪問の際には、再びそれらの作品を眺め、昨年の秋との印象の変化を確かめる。
国立公園と美術館の双方を味わうためには日帰りではもったいない。そのため、今回は二泊三日の国内旅行という形でデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園近くのホテルに宿泊する。
初日はホテルのチェックインに合わせて現地入りし、近くをぶらぶらと散歩する。翌日にデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園で自転車を借り、サイクリングをしながらクレラー・ミュラー美術館を目指す。
オディロン・ルドンの特別企画を含め、美術館に所蔵されている作品をゆっくりと鑑賞したら、カフェで休憩をしながら日記でも書き留めたいと思う。七月の小旅行に今から少しばかり心が躍る。フローニンゲン:2018/6/9(土)06:16