昨日の長時間にわたる座禅の際に得られた幾つかの洞察について少し思い出している。もっとも大きな洞察は、洞察そのものが溶解し、三昧のような境地に自己が参入しうるということを体験したことであったが、その他に幾つか興味深いものがあったことを思い出している。
一つは、私たちは自分の脳を他の誰かと共有しているのではないか、というものだった。これは非常に突飛な考えであり、私も最初それに驚いた。
静かに座り、意識が深まっていくにつれ、自分の脳を別の誰かが活用しているような感覚に陥ったのである。これはとても不思議な感覚であり、同時に一瞬戸惑うものであった。
「一体どこの誰が自分の脳を活用しているのだろうか?」そんな問いが脳裏によぎり、「それではこの意識は自分とは異なる別の誰かが持ちうるものなのだろうか?」という問いが立った。
その瞬間、私の脳は悲鳴をあげるかのように甲高い音を上げた。脳が発する悲鳴のような音を聞いた時、最後に立てた問いは誤っているものであることを直感的に知った。
「自分の意識はやはり固有のものらしい。だが、脳は共有しうる」という不可思議な結論がもっとも自分を納得させた。
脳に関してはその他にも興味深い発見があった。よく言われるように私たちは脳のほとんどの部位を活性化させない形で日常を過ごしている。
座禅の最中、脳全体が途轍もなく活性化する瞬間があり、脳が構造的に別の次元に再構成されていく瞬間を捉えることができた。すると同時に、自分の思考が普段とは全く別の次元でなされることに気づいた。
これは非常に説明が難しいのだが、ある思考が浮かんだ瞬間に、その思考の奥へ奥へと向かっていくような思考運動が起こり、初期の思考をそれが浮かんだときとは全く異なる次元で眺めているような感覚が生まれた、と言えば分かりやすいだろうか。
一つの思考はある意味観点であり、その観点が実は極めて微細かつ無数の観点で構成されており、どこまでも限りなくその微細な観点に入っていくことが可能になった、という感覚である。また、一つの観点には無数の真実と嘘が内包されており、それらを一挙に全体として把握することを可能にするような現象も起きていた。
昨日の出来事であるから徐々に記憶が失われつつあるが、その他にも印象に残っている体験としては、素粒子とぶつかる感覚があったことだ。より正確には、私の脳が素粒子を捕まえるような現象が起こっていた。
座禅が深まっている最中、ある時突然、自分の脳に極小の粒が入り込んできたのがわかり、その瞬間に脳全体が光った。それはとても激しい光であった。
その発光を知覚した瞬間、どういうわけか私は直感的に、自分の脳は素粒子とぶつかったのだ、あるいは素粒子を捕まえたのだ、と思った。人間の意識が深まるとこのような体験をするというのはやはり興味深い。
今から七年前に米国西海岸のジョン・エフ・ケネディ大学に留学していた二年間は、まさにこうした人間の意識の特性について探究を進めていた。ここ最近再び意識の形而上学に関心を持ち始めていたため、昨日の体験を踏まえ、人間の意識が持つ不思議な特性についてまた考えを深めていこうと思う。
昨日の体験はその他にも幾つか非常に重要な洞察を含むものがあり、それらを思い出した都度書き留めておくことにする。フローニンゲン:2018/5/28(月)08:24