美しい青空が今目の前に広がっている。一筋の白い雲が空に一筆書きにされている。
朝食の果物を食べながら、私は壁に掛けているニッサン・インゲル先生の二つの作品に見入っていた。何かを考えることなしに、ただ作品に見入る。それをしばらく続けていた。
果物を食べ終えると、インゲル先生の二つの作品を綺麗にしようと思った。ここしばらく手入れをしていないことに気づき、ホコリを拭き取った。心なしか絵の表情が澄んだものになったように思う。
このところ芸術教育に対する関心が日増しに強くなっていく。子供のみならず、成人に対する芸術教育への関心が私を捉えて離さない。
今朝読んでいた書籍も芸術に関するものであり、同時に美に関するものであった。美は美であるゆえに私はそれに惹かれているのだと思う。非常にシンプルな理由である。
だが、その他にも美なるものに惹かれている理由がある。より厳密には、美を取り巻く様々なことに対して強い関心を持っていると言った方がいいだろう。
それらについてはこれまでの日記で断片的に書き留めているため、あえてここでは何も書かない。ただし、今後はそれらの断片的な関心事項のそれぞれをより深めていくことが大切になる。とにかく芸術教育と美学を起点にして、これからの探究を前に進めていく。
何かを知ってから文章を書くのではなく、書きながら知っていくということ。考えてから書くのではなく、書きながら考えることの大切さを改めて思う。
人は何かを知ってから文章を書こうしがちであるが、それでは何も書けない。また、人は何かを考えてから文章を書こうとするが、それでは何も書けない。なぜなら、書くという行為はそもそも知ることや考えることに先行しているからだ。
知らないものを知るために知らないままに書くことの大切さがここからわかる。何かを知ろうと思ったら、何かを考えようと思ったら、まずは書き出してみることが重要なのだ。
私はこの重要性を日記の執筆を通じて痛切に実感している。日記の執筆がなければ、欧州でのこの二年間において自分は一体何を知れたというのだろうか。
ここで述べているのは外面的な現象に対する理解というよりも、自分自身に対する理解という意味だ。日記の執筆がなければ、この二年間を通じて一体どれほど自分について知れたであろうか。
ソクラテスがデルフォイのアポロン神殿で「汝自身を知れ」という啓示を受けたことをふと思い出す。来年の春にアポロン神殿を訪れてみようと思う。その必要性と要求を強く感じる。
自己を知ることに終わりはなく、文章を執筆しながら自己を理解していく試みはこれからも続けていく。
言葉の持つ色や形に対する感覚が幾分鋭敏なものになってきた。一つ一つの言葉が持つ独特の色や形を用いながら、日々の経験を形にしていく。
とりわけ、日々の生活の中で喚起される感動・充実感・幸福感を言葉を通じて形にしていく。しかもそれはできるだけ絶えず行っていくようにしたい。
自らの内的感覚を起点にし、それを外側に造形していくことを通じて、自己の本質、さらには人間存在の本質が少しずつ明らかになっていく。
風の穏やかな日曜日。今日もまた日記を書くことになるだろう。なぜなら、日々の瞬間瞬間に自分の心を動かすものが潜んでおり、私は絶えずそれに触れているからだ。フローニンゲン:2018/5/27(日)10:34
No.1042: Open Palms
It is Sunday on which I unintentionally open my palms to the boundlessazure skyin front of my eyes. My ego almost dissolves into the outer world. Groningen, 08:47, Sunday, 7/1/2018