薄く曇った空。近くの家の前で工事が始まった。どうやら家を壊し、新しい家を建てようとしているようだ。創造からの破壊と、破壊からの再創造。
ゴミの収集車がやってきて、溜まったゴミを取っている。オランダのゴミ捨て場は一風変わっていて、金属製のボックスが地面に埋め込まれており、近隣住民はそのゴミ箱専用のカードを持っていて、カードをかざすことによってゴミ箱が開き、ゴミを捨てる。
収集車は金属製のボックスをクレーンで持ち上げ、ボックスの底を開く形で収集車にゴミを流し込んでいく。最初その光景を見たとき、日本でも米国でも見たことのないものだったので物珍しそうに見物していた。先ほど改めてその光景を目にした。
ここ最近はバッハの曲を毎日のように参考にしている。バッハの曲から学ぶべきことは無数にあり、まだその極一部しか学びを汲み取ることができていない。
ただし、バッハの曲を参考にする過程の中で徐々に見えてくることが増えているのは確かだ。改めてバッハは、モチーフの発展のさせ方が巧みであると先ほどふと思った。
モチーフの発展に関してはどの作曲家も考えるべきことであり、その他の優れた作曲家もその技術が巧みなことは間違いない。だが、バッハはそうした中にあってさらにその技術が洗練されているように思う。
バッハの曲を参考にする際の楽しみは、楽譜の中に構造的なパターンを見出すことであり、それはモチーフの発見と言ってもいいかもしれない。さらなる楽しみは、そのモチーフがどのように発展しているのかを発見することである。
いつも私は、バッハのモチーフの発展方法に唸ってしまう。時に全く同じ構造が繰り返されているかと思いきや、少しばかり構造が変化していたりと、創意工夫の精神をそこに見る。
私がどうしても掴みたいのは、そうした変化の中にあるバッハの意図であり、そうした変化を生じさせた感性だ。なぜAというモチーフがA’に変わったのか?という理由を問う質問は正直答えようがないように思う。
一方で、AというモチーフがA’に変化した背景にどのような意図があったと考えられるだろうか?という質問ならまだアクセスできる。そして一番重要なのは、そうした知的な理解に加えて、AというモチーフがA’に変化することを促した感性の獲得である。
おそらくこれこそが作曲の才能と呼ばれるものであり、その作曲家の個性と呼ばれるものだろう。つまり私は、バッハの曲を参考にし、バッハの個性の根幹部分を知的かつ感覚的に掴みながら、同時に作曲に関する自らの個性を育んでいくことに従事していると言えそうだ。
ここには一人一人の人間が持つ創造性の根幹が関与している。私たち人間が絶えず内側の感覚を生成するメカニズム——差異化と統合化の運動や自己組織化能力——は、その個人の固有の創造性に他ならない。
創造性を育んでいくというのは、自己の生成力そのものを育んでいくことであり、自己を涵養することに他ならない。私は作曲実践を通じて、人間発達について随分と多くのことを教えてもらっているように思う。
発達現象の本質と創造性の本質。そして自己理解を含めた人間理解。それらの本質探究と理解をさらに深めていくために、今日もまたバッハの曲を参考にし、自分の内的感覚に基づいて曲を作っていきたい。フローニンゲン:2018/5/25(金)08:47