昨日、突然浴室の電球が切れた。厳密には浴室の電球は半年前にすでに切れており、それについて私はあまり気にしていなかったのだが、浴室にある洗面台の電球が突然点灯を始め、目がチカチカして困ってしまったので不動産屋にメールをした。
「水曜日か木曜日なら家にいますので、そのどちらかの日に修理屋さんの都合の良い日はありますか?」と連絡をした。すると、二年前の日記で登場した例のヨスから連絡があり、「おはようございます!ご自宅にいらっしゃらなくても大丈夫ですよ。修理屋は今日(火曜日)そちらに向かいます」という返信があった。
数ヶ月前にフローニンゲン大学のイノベーション情報センターで研究インターンをした時に同僚から言われたのは、「オランダ人は直接的な物言いをしてコミュニケーションする国民である」ということだった。不動産屋に送ったメールにはもしかすると、依然として日本人的な文脈思考の名残があったのかもしれない。
私のメールの意図はもちろん、自分が自宅にいる時に修理に来て欲しいということであり、しかも修理は今日ではなく、水曜日か木曜日にして欲しいということだったのだが、ヨスからのメールにあるように、結局本日火曜日に修理屋が来ることになった。
幸いにも今朝の天気予報の判断で、午後から予定していた街の役所に行くことを明日に延ばしたので自宅に待機できることになったが、本当にこちらの意図を全て明示的に文章にしなければ相手に真意を伝えることができないことを改めて知る。
お世話になっている不動産屋が契約している修理屋はいつも同じ男性であり、これまた二年前の日記で書いた例の人物である。あの時は、フローニンゲンに到着した深夜に排水管が破裂するという事態に見舞われ、翌日にこの修理屋に来てもらった。その時の私の第一印象は2m近い大男だったが、それ以降にも二回ほど彼にお世話になることがあり、確かに身長は高いがそんなに巨人ではないことがわかった。
午後二時半を過ぎた頃に修理屋が部屋にやってきた。挨拶もそこそこに、彼はいつもと同じように土足で部屋に上がろうとした。ここでもいつもと同じように、私は靴を脱いでもらうことをお願いし、スリッパを渡した。
今回洗面台の電気が点灯して困っていたのだが、それに合わせて、半年前に切れた浴室の電球も交換してもらおうと思った。すると、私はある重要なことをさらに思い出した。
そういえば、書斎の電球はフローニンゲンにやってきて数ヶ月した頃、つまり一年半前ぐらいに切れており、さらにその後数ヶ月して廊下の電球も切れた。それ以降私は天井の電気をつけることなく今まで生活をしていたことを思い出した。
それまでどのように生活をしていたかというと、書斎の電気スタンドと、地べたに置かれた備え付けのちょうちん(?)のようなものを使って生活をしていた。面白いもので、別に天井の電気が一切なくても生活に困らないことをこの一年半の生活を通して知った。
だが、せっかくなのでこの際に全ての電球を交換してもらうことにした。机の上にある小物の位置が1mmでもズレると大変気持ち悪く思う神経症的な自分がいる一方で、切れた電球について一切気にかけない大雑把な自分がいることを面白く思う。神経を使うことに関しても領域固有性なるものが存在しているのかもしれない。
修理屋は到着すると、すぐさま電球の交換に取り掛かった。一年半前初めて彼に会った時、彼は英語をほとんど話せず、一方私はオランダ語をほとんど話せなかった。
一年半経ってみると、彼は片言の英語を話し、私は片言のオランダ語を話すという微笑ましい状況になった。このあたりにも人間の成長が見受けられる。
修理屋はとても手慣れた手つきで全ての電球を交換してくれた。浴室の電球が交換され、電気を改めてつけてみると、これほどまでに浴室が明るくなるのかと驚いた。
また、書斎と廊下の電気をつけた時にも同じことを感じた。入浴する際には今日から浴室の電気をつけるだろうが、書斎の電気をつけるかどうかはまだわからない。
というのもいかんせんこの一年半天井の電気をつけるという習慣がなかったため、それを新たな習慣にしなければならない。現在朝の習慣として、起床直後に内的感覚をデッサンすることと、プラトン全集を少しずつ読み進めることが習慣となっているが、果たして書斎の天井の電気をつけることが習慣になるだろうか。
正直なところ夏の時期において電気をつける必要はほとんどないが、冬に入ったらこれを新たな習慣にする必要があるだろう。とりあえず全ての電球の交換が終わり、欧州での三年目の生活もこれで快適になるだろう。フローニンゲン:2018/5/22(火)15:36