時刻は夜の九時を迎えた。この時間帯のフローニンゲンはまだ明るい。日没まであと一時間ほどの時間がありそうだ。
早いもので日曜日も終わりに差し掛かっている。この二日間の休日は普段と変わらないぐらいに充実していた。毎日が充実感と共に一瞬にして過ぎ去っていく。
時の流れはかくも早いものなのかと思わされる一方で、日々感じている充実感は永遠の特性を帯びているがゆえに、全体としての時の流れは緩やかに感じる。時間という存在の探究と自分の時間感覚の探究の双方をこれからも続けていく。
なにやらパトカーや消防車が通りの向こうの赤レンガの家に駆けつけている。ここからでは具体的に何があったのか定かではないが、何人もの通行人がその様子を眺めている。
そういえば冬の時期にも一度同じようなことがあった。その時には、赤レンガの一軒の家から煙が出ていたことを覚えている。
夕方作曲実践をしている最中に、曲の中に潜むルールを見て取った。言い換えればそれは、曲を生み出す自分自身にある作曲創造のルールだと言える。
私は自らのルールに則って曲を生み出していることに気づいた。そのルールこそが、自分なりの作曲語法に違いない。
今は作曲語法と呼べるような代物では決してないが、それが発達していくことを予感している。いや、それは予感する必要もなく、それは間違いなく発達をしていく。
自己の発達と同様に、曲を生み出す規則性は間違いなく発達を経験していくのである。曲を生み出す規則性がどのように発達していくのかをこれから特に意識を当てて観察していく。
まずは自分の内側にどのような性質の規則があるのかをより明瞭にし、その規則が発達していくための余地を見つけていく。その余地が特定されたら、実験的に様々なことを行う。
その時には、発見された規則に応じて仮説を立てていくことが重要になる。そのようなことを今日の作曲実践を通じて思った。
先ほど、直感把握と言語化との関係性について一つ閃きがあった。私たちは対象の全体を直感的に把握する力を持つ。
およそ何かを認識する際にはこうした「全体直観力」とでも呼べるような力を活用してるように思う。ただし、全体直観力だけを行使していては、対象から意味を汲み取ることや、対象を深く理解していくことはできない。
全体直観力で把握されるのは、あくまでも対象の輪郭であり、そこに内包される豊かな部分的意味ではない。ここで重要になるのが、言葉による分節化である。
全体直観力で把握された事柄に対して言葉を当て、言葉の分節化を通じて対象を構成する部分をつぶさに捉えていく。そして捉えられた部分を言葉を通じて再度全体としてまとめ上げていくことが、一つの意味の創出であり、対象の深い理解につながっていくのではないかと思った。
要約すると、ある体験や現象から意味を汲み取り、その本質的な理解に至るためには、全体直観力を通じて把握されたものを言葉の文節化能力によって一旦文節し、それを再度言葉の統合化能力を通じてまとめ上げていくことが必要なのだ。
このように考えてみると、言葉を紡ぎ出すことには発達の原理である差異化と統合化の要素が含まれていることに気づく。書くことを通じて認識が深まるというのはこうしたメカニズムによってだったのだ。
今後もさらに、全体直観力と言語化能力との関係性について考察を深めていこうと思う。フローニンゲン:2018/5/20(日)21:16