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2580. ヘンリー・デイヴィッド・ソローと街の工事から


先ほどふと、先日フローニンゲンの街の古書店で購入した一冊の書籍のことを思い出した。それは思想家かつ詩人であったヘンリー・デイヴィッド・ソローに関する書籍である。

その書籍についてふと意識が向かったのは、その直前に昨年の北欧旅行の際に読んでいたエマーソンの全集について思い出していたからである。去年の夏、私はエマーソンの全集を片手にデンマークとノルウェーを旅した。

北欧の自然や街を列車や長距離バスで移動しながらエマーソンの全集を食い入るように読んでいたことを懐かしく思い出した。ソローはエマーソンの弟子であり、友人でもあった。

これまで私は一冊もソローの書籍を読んだことはなかったが、ソローがマサチューセッツ州のコンコードの森の中でひっそりと生活を営んでいた時期があることを知ってから、どこか彼の生き方や思想に共感を抱いていた。

共感を抱きながらもまだ彼の作品を一つも読んだことがない状態が続いていた時に、街の古書店で偶然にも“Bird Relics: Grief and Vitalism in Thoreau (2016)”という書籍に出会った。

この書籍も厳密にはソローの作品ではなく、ソローの詩作を紹介することを通じて彼の思想や生き方を解説した内容になっている。本書を出版したのはハーバード大学出版であり、正直なところ、ハーバード大学出版の出版物は自分にとって面白いものが少ない。

これまで面白いと思った本は、キーガンやファウラーの書籍など数えるほどしかない。ハーバード大学出版からの出版物を眺めていると、その元になっているハーバード大学というのはもしかしたら大衆化された大学なのかもしれないと思ってしまう。

お隣のMIT出版は自分にとって関心のある書籍を多く出しており、またハーバード大学が設立の際に範を求めたケンブリッジ大学の出版社も優れた書籍を世に多く出している。古書店で購入した書籍にも二つの出版社から出版された書籍が何冊か混じっていた。

出版物を見る限り、ケンブリッジ大学の方がハーバード大学よりも随分と格が上のように思える。もう少し二つの出版社から出された書籍を吟味することによって、両者の大学の政治的意図や力について考えを深めていこうと思う。

フローニンゲンの街はこのところ工事をしている場所が多い。街の至る所で道路の工事が行なわれている。

そういえば、私がこの街にやってきた最初の夏もそうであったし、その次の夏もそうだった。毎年この初夏の時期に工事が多くなされるのであろうか。

いずれせよ、私が気づいていないところで常に工事が進行し、気がついてみると綺麗な道が出来上がっていることにはいつも驚かされる。フローニンゲンの街は、二年前に来た頃よりも確実に変化している。

フローニンゲンの街の作りに関して、以前どこかで面白いことを聞いた。フローニンゲンの街は特に歩行者を大切にするように配慮されており、車が走れる道はあえて一方通行にしているものが多いと聞いた。

特に街の中心部あたりに張り巡らされた道はそのような作りになっているようだ。ひとたび道を間違えると随分と迂回をしなければならず、その煩わしさを考えると歩いた方がいいと人々に思わせる隠れた意図があるというような話を聞いた。

この二年間で行われた工事に関しては、一体どのような意図や配慮の元になされたのか気になるところである。行きつけのチーズ屋の真ん前を通る道も随分と綺麗になった。

より歩きやすい道になったという点においては、歩行者としての私にとっては喜ばしいことである。それでは景観についてはどうだろうか。

その道に関して言えば、景観を損なうことがなかったように思える。工事が完成した時、それについてはホッとしたのを覚えている。

道一つを変えるだけでも、その街の印象は随分と変わってしまうものである。また印象が変わるということは、街の景観からフィードバックされてくる内的感覚も必然的に異なることを意味しており、街の開発計画というのは本当に難しいものだと思わされる。

安易に道を変えることが街全体の景観を損ねてしまい、そこで暮らす市民の精神生活に多大な影響を与えるのと同じように、対人支援の仕事において一本の道を安易に変更させるような介入を行うことがどれだけ危険なことかを改めて思う。街の発達も人の発達も非常に繊細複雑な現象だ。フローニンゲン:2018/5/18(金)17:04

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