昨日の作曲実践では、再びバッハの曲に範を求めた。作曲実践をするときはいつも誰かしらの作曲家の楽譜を手元に置き、そこからインスピレーションを得る形で曲を作っていくことが習慣になっている。
どの作曲家のどの曲を参考にするかはいつも行き当たりばったりである。厳密にはそれはランダムではなくて、決定論的カオスのように作曲家と曲を選んでいるのだと思う。
つまり、単純に無作為な形で作曲家と曲を選んでいるのではなく、自分の内側にある何かしらの規則に則ってそれらが選ばれているということだ。私が参考にすることが多いのは、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、バルトーク、ショパンなどである。
以前はグリークやフォーレに範を求めることがあったが、今は彼らの曲に範を求めることは少ない。ここ最近、リスト、サティ、スクリャービンの楽譜を購入したため、近いうち彼らの曲に範を求めることになるだろう。
ここで列挙した人物以外にも、クレメンティ、シューベルト、ドビュッシーらの楽譜も購入しており、これから数年、あるいは十年近くの間は、彼らの楽譜を参照しながら自分の作曲技術を高めていくことに精進したいと思う。
その過程の中で少しずつ自分の作曲スタイルが確立されていくはずだ。スタイルの確立と作曲上の文体を確立すること、すなわち作曲語法の確立はほぼ同じことを意味しているだろうか。
自らの文体を確立するために、優れた文章を数多く読み、実際に文章を書くという修練が不可欠であるのと同じように、作曲語法の確立のために、優れた楽譜に数多く触れ、実際に曲を作るという実践を絶えず積み重ねていきたい。
数多くの作曲家が残した優れた楽譜が手元に数多くあることは喜ばしいことだが、あまり目移りしすぎるのも良くないかもしれないと思う。今自分は乱読の時期なのか精読の時期にあるのか、はたまたそれらを組み合わせる時期にあるのかを見極める必要がある。
つまり、多数の作曲家に範を求めるのか、一人の作曲家に絞って曲を作っていくのか、あるいはそれらを組み合わせながら実践を行っていくのかを見極めていく必要がある。直感的に、バッハに特化する形で作曲語法を確立していくことが望ましいような気がする。
それは上述の作曲家の多くが必ずバッハを参考にしていたことも影響しているが、何よりも私自身がバッハの音楽世界に深く共鳴しているからだ。本当にここしばらくは毎日10時間以上バッハの曲を聴いている。
「バッハの曲に範を求めよ」そんな声が聞こえてくるかのようだ。とりあえず昨日に引き続き、今日からしばらくはバッハの曲に範を求めようと思う。
現在私が作っている曲は全て非常に短いが、その中でも比較的長いものはバッハに範を求め、短いものは引き続きバルトークの『ミクロコスモス』に範を求めていく。ここからしばらくはそれら二人の作品に集中したいと思う。
作曲実践に並行して、日々の読書から得られたものをいかに曲の中に溶かし込んでいくかについても考えていく。意識の形而上学と美学を真剣に探究しようと思った真の意図はそこにある。
曲の中にそれらの哲学思想を組み入れることによって、曲を通じて自分自身の見方を変え、この世界の見方を変えることにつながりはしないかという仮説を検証するための実験を行っていく。生み出すそれぞれの曲は一つ一つの実験結果であり、この実験はおそらく生涯をかけて行われていく。
意識の形而上学や美学の探究を進めていくことによって、自己及び世界の見方が変わり、この世界に対する関与の仕方を変えていかなければならない。そうしたことが実現されなければ、探究をする意味などないだろうし、それらの思想領域が持つ本質には必ずそうした実践的な側面があるはずである。
意識の形而上学と美学に対して感じている意味や意義というのは自分の中で大きく、それらが果たす役割も非常に大切なものだと思っている。こんな現代社会であればなおさらそうであるように思える。フローニンゲン:2018/5/17(木)07:41