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2558. 変容の波のうねりの中で


昨日から精神に小さな揺らぎが起こっているのを感じる。これはとかく否定的なものではなく、むろん肯定的なものでもない。自分の中で何かが揺れている感じがするのだ。

そうした揺れが、何とも言えない倦怠感のようなものを精神に持ち込んでくる。実際に昨日は、いつもと同じように十分な睡眠時間を取っていたにもかかわらず、午前九時あたりに20分ほど仮眠を取った。

今朝も昨日と同様に五時半に起床し、六時から一日の仕事を開始したが、昨日のような眠気を引き起こすような力を自分の内側に感じた。午前八時半を迎えるにあたり、その眠気はもはやほとんどないと言えるが、それでも少しばかり精神がぼんやりとしているように思える。

振り返ってみると、こうした現象は過去にも時折見られたことであった。これを引き起こしているのは、単純に季節の変わり目という要因だけではないだろう。おそらくそれ以外の要因があるはずだ。

フローニンゲンの街を覆う空が、薄い雲の層で覆われている。覆われるものをさらに覆うもの。そして、それをさらに覆っている何か。

薄い雲の層で覆われた空から太陽の光がほのかに差し込んでくる。微光が漂う街の一軒の家の中で、今日も私は自分のなすべきことに従事する。

先月ワルシャワに滞在している時、欧州での三年目の探究生活に対して少し恐怖を覚えた。なぜなら、それが今までよりもより一層激しいものになり、より深い場所へ自己を連れていくことを直感的に知ったからだ。

今はそうした恐怖感の裸体を触ることはなく、精神は随分とくつろいでいる。だがそれでも、欧州での三年目の探究生活を象徴するような始まりをすでに感じ始めており、自分の内側で並々ならぬ何かが動き始めているのがわかる。

欧州での二年目の生活は比較的変容の波が落ち着いていたように思っていた。しかし、二年目の生活の最後のこの時期に、変容の波が再び激しくうねりだした。

欧州での三年目の生活はうねりのある変容の波の中で過ぎていくかもしれない。そのような予感がする。

一昨日、知識や経験の拡張を意味する「差異化」と知識や経験を組成していく「統合化」について改めて考えていた。自分の内側で日々進行していく差異化と統合。

自らの存在にせよ、知識体系や技術体系にせよ、そうしたものを深めていくためには、差異化と統合化の双方が大切になる。欧州という土地で生活をすることを通じて、私は日々、新たな知識や経験が自分の内側に流れ込んでくるのを感じている。

本当にそれは毎日怒涛のような流れでやってくる。それでいて厄介なのは、怒涛の流れであるはずのものが静かな流れの装いを持っていることだ。

仮に流れの静けさの中で安心していると、その流れに自己が溺れていたということにもなりかねない。そのため、流入してきた知識や経験を何とか自分の中で組織化していくことが不可避に要求されている。

そうした不可避の要求の結果、私は日々日記の執筆と作曲をしているのだということにはたと気づかされた。穏やかな装いの流れに溺れることから自己を救済し、怒涛の流れの中で生きることを支えてくれるのが、日記を書くことであり、曲を作ることだったのだ。

欧州での三年目の生活が今年よりも一層激しいものになるのであれば、日記の執筆も作曲もまたより激しいものになるだろう。フローニンゲン:2018/5/13(日)08:45

No.1015: Celestial Scintillation

I visited the Lutherse church yesterday and joined an ensemble concert of Bach. Although it has been cloudy since the early morning, I can feel celestial scintillation now. Groningen, 09:50, Monday, 6/11/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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