書斎の窓から青空を眺めていると、少しばかり昔の記憶が思い出された。ちょうど私がマサチューセッツ州のレクティカに所属していた頃の記憶がふと甦ってきた。
昨今、日本でも成人発達理論の知見が広く知られるようになった。以前にも指摘しているように、現在のような普及の黎明期において、様々な問題が顕在化されつつある。
その中でも以前、発達段階に関する単純なラベル付けの問題について指摘していたように思う。単純なタイプ分類と同様な形で発達段階に関する議論が頻繁に見受けられるのが日本の成人発達理論を取り巻く現状かと思われる。
以前言及した観点とはまた異なる形でこの点について言及したいと思う。そもそも発達段階モデルを単純なラベル付けとして活用することの問題は何であろうか。
それはこれまで述べてきたように、私たちは単一の発達段階モデルで特定されるような単一の段階を通じて生きていないという点、つまり人間は単一の段階モデルで説明されるほどに単純な存在ではなく、もっとずっと複雑な存在であるという点をもう一度確認する必要があるだろう。
実際のところ、現在日本で紹介されている発達論者及びそのモデルは、全体から見たら極わずかな限定的なものでしかない。人間の発達領域は多岐にわたり、それはほぼ無数の数存在すると言っても過言ではなく、それを単一の理論モデルだけをもってして説明しようとすることは暴挙である、ということはこれまで何度も述べてきたように思う。
それでも相変わらず段階モデルによるラベル張りが横行しているようなので、もう少し段階特性について説明をする必要があるのかもしれないと思った。これについても「発達範囲」という概念を用いて説明をしてきたつもりであるが、もっと別の表現で説明をした方がいいのかもしれないと思うに至った。
そもそも人間の発達段階を議論する上で、ほとんどの人はある大前提を見落としている。それは物理的測定手法以上に心理的測定手法の妥当性と信頼性は低いということである。
議論が心理統計学の細部に入らないように注意したいが、そもそも外界の現象を物理的測定手法を用いて測定する際にも、それが完全に正確なものではないことをもう一度確認する必要がある。一見すると気温を正確に計れるように思える温度計、一見すると時間を正確に計れると思えるような測定機器にも測定上の誤差や信頼区間というものが存在する。
「信頼区間」という概念はもしかすると馴染みがないかもしれないため、それを端的に述べると、例えばある測定機器によって計測された数値は、純粋にその数値を結果として示しているのではなく、ある一定の幅においてその結果が現れるに過ぎないということを示す。
そして、いかなる発達測定手法もそれが厳密であればあるほど明確な信頼区間の統計情報を提示している。残念ながら、今日本で普及している発達理論の母体にはそもそも厳格な測定手法というものが存在しないものが見られる。
それにもかかわらず、単純なラベル付けを行うことがまかり通っていることはとても危険な傾向だと思う。非常に厳密な測定手法、例えば信頼区間が95%のものを用いたとして、その測定手法によって例えばある文脈におけるある能力の段階が10.4だと判明したとしても、その能力が10.4のレベルにあると言えるのは100回中95回である、と言えるに過ぎないのだ。
つまり、100回中5回は全く異なるレベルの能力を発揮する可能性があるのだ。それが粗悪なアセスメントになればなるほど、信頼区間は低下し、そもそも測定される能力の幅がもっと広いものになる。
現状日本で知られている発達理論のモデルの幾つかは——例としては、『ティール組織』で言及されているスパイラルダイナミクス——、かなり劣悪な測定手法を基にしていると考えておいた方がいい。特に、測定対象の能力が発揮される文脈設定が曖昧であり、なおかつ能力の要件定義が厳格ではない。
要約すると、心理的な測定手法は物理的な測定手法以上に諸々の点において粗いものだという前提を認識し、発達段階を扱う際にはもう少し慎重な議論をした方がいいのではないかと思う。フローニンゲン:2018/5/11(金)14:13