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2531. 曲が持つ自己組織化力


名前の知らない木の葉が夕方の風に揺られている。葉の揺れに伴って、夕日に照らされた木の輝きが瞬間瞬間変化している。

時刻は夕方の七時半を回った。相変わらず外は明るい。一日一日と夏に向かっていくに従って、日は延びるばかりである。

今日はとても暖かい一日であり、明日明後日も暖かい一日となる。だが、木曜日からはまた少し寒さが戻るようだ。そんなことを夕方に立ち寄ったチーズ屋の店主は述べていた。

先ほど浴槽に浸かりながら、作曲実践について振り返っていた。今日は昼食後に一曲ほど作り、夕方に大学から帰ってきてからも一曲ほど作った。

興味深いことに、曲には一つ一つ異なるエネルギーが流れていることがわかり始めた。それも明確な形としてそれを知覚することができ始めている。

曲が喚起する感情エネルギーの流れのみならず、曲を曲たらしめているよりマクロな力——それは構造エネルギーと呼んでもいいかもしれない——が一つ一つの曲に存在していることが見え始めた。おそらくこれは、曲の「自己組織化力」だと呼べるに違いない。

曲が始まりから終わりまで向かっていく自発的なエネルギーをそこに見て取ることができる。それゆえに、先ほどの作曲実践を通じて、曲に流れている自己組織化力を無理に遮断するような形で曲を終わらせようとすると、曲の終わりが力のないものになってしまうことに気づいた。

それは、曲が静かな音で終わるか否かの問題ではない。曲を曲たらしめる張力の問題であり、その張力を生んでいるのが、この自己組織化とでも形容できるものなのだとわかった。

これまでも何度となく違和感のある曲を作ってきた。曲の途中や終わりにそうした違和感を感じることが多い傾向があり、そうした傾向を生み出していたのは、まさに曲の中に潜む固有のエネルギーの性質に私が気づけていなかったことが挙げられるだろう。

最初から最後まで必然的な流れで完結していく優れた曲をより注意深く聴かなければならない。しかも、それを単に聴くだけではなく、曲を分析し、分析から再び総合に向かう形で身体や存在を通じてその曲を聴いていく。

分析的に対象と接しない者には何もわかってはこない。また、分析から総合に向かう形で対象と接しない者にはそこから一歩奥の世界が見えてはこないのだ。それを肝に銘じなければならない。

思考による分析を進め、身体や存在を通じて曲を再度聴いていく。いや、思考も感覚も全て総動員して分析を進め、全ての感覚を統合的に発揮した形で曲と接していく必要があるのかもしれない。とにかく、一つ一つの曲に潜む神秘、曲そのものが持つ神秘的な特性をもっと深く知っていきたいと思う。

浴槽に浸かりながら考えていたもう一つのことは、作曲の原則に「できるだけ“step motion”を使い、程よく“skip motion”を入れていく」というものがある。前者は、一度音符を上げ下げすることであり、後者は二度以上音符を上げ下げすることを指す。

浴槽の中でこの原則の言わんとすることが体感的に理解できた。仮に後者を多用した場合、曲のフラクタル構造がホワイトノイズを発してしまうのだ。

つまり、そこには安定性のかけた激しい変動性が曲の中に生じてしまう。一方、前者をできるだけ活用し、ところどころに後者の動きを取りれていくというのは、まさに程よい変動性を持たせるという意味で、ピンクノイズのフラクタル次元を曲に付与することに他ならない。そんな閃きが先ほどあった。

この閃きを基にすれば、その原則の妥当性がより強くなっていく。浴槽の中で、試しに変動性の激しいメロディーを作ってみたときに、確かにそれは音楽としての体をなしていなかった。

逆に、変動性の低いメロディーを作ってみても、同様に違和感のある音の集合が生まれた。曲に程よい変動性をもたらしていくこと。それが作曲の原則にある。

変動性をもたらす対象は複数あり、例えばメロディー、リズム、ハーモニーという音楽の三要素などが挙げられる。その他にも変動性をもたらす対象は考えられるのだろうが、とりあえず私はそれらの三要素を意識しながら調和の取れた変動性を持つ曲をこれから少しずつ作っていきたいと思う。言うは易し行うは難しだが。フローニンゲン:2018/5/7(月)19:48

No.1008: An Orange Steamship

My feeling at this moment is like going aboard an orange steamship. Groningen, 09:12, Monday, 6/4/2018

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