今朝も相変わらず気温が低い。昨日と同様に、一日中暖房をつけっぱなしにしている。
外の景色を眺め見ると、薄い雲が空一面を覆っていることに変わりはないが、太陽の光が地上になんとか届いている。自分の内側を眺めてみると、小さな炎が揺らめきながらその強さを増しているのが分かる。
強さの増大は微々たるものが、炎が力強いものに向かっている。内面の炎の色が深く濃いものになっていく。
昨日ふと、自分の中の全ての事柄がまた新しく始まろうとしていることに気づいた。そうした始まりに対して、私は期待のようなものを持っているようだ。
静かに高まっていく期待が自分の内側で脈打っている様子を見てとることができる。脈打っている何か。
内面の炎にせよ、そうした期待にせよ、それらは全て揺らめきながら脈動する性質を持っている。脈動と躍動はここに一致するのかもしれない。
自分の内側の中で絶えず脈動するもの、そしてそれが躍動する形でどこか遥か彼方の世界に向かっていく。そんな姿を毎日、毎日、毎日見つけることができる。
そうした姿を見守ろう。そんなことを思った。
数日前から心眼や魂眼で捉えられた現象をデッサンすることを始めた。これは今の私にとって、いやこれからの私にとって不可欠な実践のようだ。
この実践を取り入れたことによって、私の中で何かがまた違う次元に向かって動き出しているのが分かる。今はシャープペンシルでデッサンをしているが、もしかしたら近日中に近くの文房具屋に立ち寄り、数多くの色が揃った色鉛筆のセットを購入するかもしれない。
黒単色の方がいいのか、色鉛筆を用いた方がいいのか、その辺りの判断は少しばかり先延ばしにする。デッサンの実践が新たに加わったことにより、これまで用いていなかった感覚が開いていくかのようである。
以前から、曲を絵画として表現することや、その逆として絵画を曲として表現できないかと考えていた。それができれば、どれだけ日々の創造活動が充実したものになり、毎日の精神生活がどれだけ豊かになるだろうかと思っていた。
もしかしたら、今の私は本当にその実現に向けて歩み始めたのかもしれない。これまでこの世界に存在するいくつもの美術館を訪れたが、そこで見た絵画作品から感じられたものを曲として形にしたいという思いが度々あった。
また、日々傑出した音楽を聴く中で、それを絵画として表現できたらどれだけ素晴らしいかと思っていた。そのようなことを考えていると、いつも朝食のリンゴを食べながら眺めている、ニッサン・インゲル先生の作品について思い出した。
インゲル先生は、「絵画を聴き、音楽を描くこと」を信条にしておられた。改めて先生の作品を眺めた時、その信条が作品の中に宿っていることが明白なものとして知覚された。
作曲をしている最中、そしてデッサンに没頭している最中のあの観想的な意識の状態。人間が行う創造行為の中には本当に不思議な現象が無数に存在している。
今日も一日中観想的な意識状態の中で充実した一日を過ごすだろう。なぜなら、私は一瞬たりとも創造行為から離れることなく生きているからだ。フローニンゲン:2018/4/29(日)08:36