雨に濡れた通りを走る車の音が聞こえて来る。先ほどの激しい雨は、しとしとと降り注ぐ雨に姿を変えた。
二人の女性が異なる原色の傘を差しながら道を歩いて行く姿が見えた。昼食前に行っていた知人の方との対話を今また思い出している。
真の対話には深く静かな感覚が伴い、真実なもの、善なるもの、美なるものの根幹にはこうした静謐な感覚が横たわっているような気がしてならない。真善美には、静と動を超えた絶対的な静けさがある。
その絶対的な静けさは絶対的な動も表す。そんな感覚に触れていたのが先ほどの時間であった。
それにしても、フローニンゲンの天気は元気がいい。ここまで目まぐるしく天候を変えれるほどの生命力には思わず唸ってしまう。
静かな雨が降っていたかと思いきや、今は少し晴れ間が顔を覗かせ、太陽の光がフローニンゲンの街に降り注いでいる。
今日の対話を通じて、一昨日か昨日に考えていた真善美の関係性が自分の中でより明瞭なものになった。それらの領域はどれも重要な価値を帯びているが、美的領域の絶対的な重要性について考えを巡らせていたのが一昨日または昨日のことだった。
美の遍満性について考える。美は真と善の領域を支える基礎として存在しているのと同時に、それらの領域を超越する形で、あるいは究極的な真と善のその先にさらに美的な次元が広がっている。
そんな考えが芽生えていた矢先、今日の対話の機会があった。知人の方と対話を積み重ねながら、その考え方があながち間違いではなく、現時点において一つの確信を自分にもたらしたかのようだった。
科学と哲学の探究はこれからの自分にとって不可欠のものになる。一方で、芸術の探究はさらにその重要性を増すだろう。
今日の対話の中で、自己の存在をかけて語るべきものが何であり、それを表現する方法にはどのようなものがあるのか、についての話題が取り上げられた。これは私が何年も向き合っていたテーマである。
今もまだそのテーマに向き合っている最中だが、自らの存在をかけて語るべきものとその表現媒体は、どちらも共に内側から育まれていくものだと思う。つまり、語るべきものも表現形式も外側に求めてはならず、どちらも自らの成熟の歩みと歩調を合わせるかのように造形されていくものなのだ。
自己という固有の存在が形としてこの世に共有していくテーマそのものが固有であり、その固有性ゆえに、それを表現する手段も固有のものでありうる。むしろ、固有のものは固有な形で外側に表現されると述べた方が正確かもしれない。
今日の対話を通じて、改めて私は東洋思想を深く学びたいと思った。これも何かの偶然だろうか、一昨日に井筒俊彦先生の“Toward Philosophy of Zen Buddhism (1982)”という書籍を本棚から引っ張り出し、「これをもう一度読む必要がある」と気付かされたのである。
自己に付着する様々な囚われから解放され、水の如く生きることの道を自己の体験を通じて深く探求していきたい。「あるがままに生きる」という虚飾にまみれた世間の言葉に耳を傾けるのではなく、自らの体験を通じて、あるがままに生きるとはなんたるかを掴み、それを通じて生きて行く。
太陽のように、風のように生きること。今この瞬間に目に映る裸の街路樹のように、赤レンガのように生きること。
今この瞬間を生きているというこの直接的な剥き出しの感覚に触れながら生きていくことが、あるがままに生きるということの重要な側面なのではないかと思う。フローニンゲン:2018/4/28(土)13:12