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2484. 静謐な感覚を通じて


静謐な感覚が自分の中に流れている。空は曇っているのに、どこかそうした曇り空でさえも歓迎するかのように小鳥たちが高らかな歌声を奏でている。

先ほど、知人の方と二時間ほど対話をする機会に恵まれた。二時間の対話を終えた時、その余韻を味わっていたいという感覚に包まれていた。

深く静かな余韻が小川の水のように流れていく。その流れをまっすぐに見つめ、その流れの中にただありたかったという感覚がそこにあった。

先ほどの対話を通じて気付かされたこと、学んだことを挙げれば切りがない。そうしたものを列挙することにはほとんど意味はなく、そうしたものを自己の中で温め続けていくことが大切になる。

あるいは、得られた気づきや学びの中で、今この瞬間に形として残しておくべき強い必然性を伴ったものだけを書き留めておくことが重要だ。

私たち人間はどうしてこれほどまでに多様なのだろうか。一人の人間に宿る固有の人生。そして、一人の人間が辿る固有の人生に対して大きな畏怖の念を覚える。

また、それ以上に驚かされるのは、これほどまでに多様な人生が時として折重なり、二人の異なる人間の人生が共鳴し合うということだ。今日の対話の中でそのようなことが起こった。

哲学者のヨルゲン・ハーバマスは、コミュニケート(comminicate)することの重要性を説いている。人間が行うこの営みに付されている接頭辞「co-」は、「共に」という意味を持つ。

真のコミュニケーションとは、全く異なる人生を歩む異なる人間が、共に人生のある時間を共有し、共に歩いていくことを意味しているのかもしれない。先ほど共有されていた時間、そしてその時間の中に流れていたあの感覚を私は忘れることができない。

そうした直接経験が、私にまた何か大切なことを教えてくれる。人間として生きることの真相が少しずつ見えてくるかのようだ。

一人の人間が固有の人生を生き、他者と共に生きていくことの真相が少しずつ明らかになっていく。二人の異なる人間が持つ固有の人生が共鳴するという現象は、一体何を示唆しているのだろうか。

雨がポツポツと降り始めたかと思ったら、その勢いが突然増してきた。この激しい雨にあっても流れさえぬもの。それこそが、人の人生が互いに共鳴し合うということの真の意味なのかもしれない。

互いに異なる人間の人生が共鳴し、折り重なりうるというのは絶対に揺るがない一つの真理なのではないだろうか。それを先ほど間違いなく経験していたことが、その不動さを物語る。

もしかすると、ここに自分の活動の立脚点と希望を見出すことができるかもしれない。一人の人間が真に生きたという物語は、他の人間の物語と共鳴しうるということ。その気づきがまた先ほどの対話の余韻を深く静かなものにしていく。フローニンゲン:2018/4/28(土)12:13

No.996:In a Mysterious Dream

I had a mysterious dream last night. Since I wrote it down, I’ve been in an altered state of consciousness.

I’ll gradually start today’s activities. Groningen, 09:54, Thursday, 5/24/2018

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