風がピタリと止み、微動だにしない世界が目の前に広がっている。時刻は夕方の七時半を迎えた。この時間帯のフローニンゲンはまだまだ明るい。
今はうっすらとした雲が空を覆っているが、西の空は雲が少なく、その方向に夕日を眺めることができる。「今日が終わりに向かおうとしている」というこのシンプルな気づきの中に潜むなんとも言えないこの感覚をどのように表現したらいいだろうか。
今日という一日が存在していたことがどこか不思議な感じがする。また、「今日という一日が存在していた」と言える自分のこの感覚にも不思議な思いを持つ。
自分が時間の流れの中にいるのか、時間が自分の中にいるのか分からない。ただ、今の自分の感覚に忠実になるならば、時間とはもしかすると私たちの内側から淀みなく流れていくものなのかもしれない。
時間が内側から流れ出しているようでいて流れ出していないようであり、時間が内側から流れ出していないようでいて流れ出しているようであるというこの感覚は、時間の充満性を表しているのかもしれない。
自己は時間で満たされており、時間は自己に満たされている。そんな関係性を見て取ることができる。
時間と自己の存在は等しく奥深い。全く分からなぬことが無数にある一方で、少しずつ見えてくるものがある。それこそが時間と自己の本質がなすことなのだろう。
先ほど入浴を終えた時、私はふと新たな習慣を一つ加えることにした。「デッサンをしよう」という思いが突然やってきた。
これまで私は日記や作曲を通じて、自分の内側にある思念や感覚を形にしてきた。何を思ったのか、それらに加え、日々の生活の中でデッサンを描いていくことを決心したのである。
自分の内側で沸き起こる思念や感覚をデッサンとしてノートに描いていく。それは今日から始めた実践だ。
夕食後に早速二つほどデッサンを行った。言うまでもなくこのデッサンは、物理的な眼で見たものを描くのではない。心眼もしくは魂眼によって捉えられたものを忠実に描くことを指す。
デッサンを行う際には、描かれた絵の主題とそれを描いた時間帯を必ずメモするようにする。言葉や曲として形にできないことをデッサンに委ねる。それを今日からの確固たる習慣にする。
何かが湧き上がってきて、それを絵として残しておきたいと思った都度デッサンを行う。何か特定の制約条件など求めることはしない。
「絵として形になろうとするものは絵として、言葉として形になろうとするものは言葉として、曲として形になろうとするものは曲として形に残していく」という精神で今日からの日々を過ごす。それは至ってシンプルな生活実践だ。
仮に意識的に行うことがあるとすれば、感銘を受けた音楽をあえて絵として表現しておくことであり、早朝の目覚めの時、夢の印象が残っていればそれを絵として形にしておく。前者に関しては、作曲実践で参考にする曲に対してはその曲から喚起されるものを常にデッサンとして残しておくのは良い案かもしれない。
それはノートに描いてもいいし、楽譜に直接残しておいてもいいだろう。その曲を聴いて喚起されたものは貴重であるため、それはやはり楽譜に直接描いておくのがいいかもしれない。とりあえずそうすることにする。
また、自分が作った曲に対して喚起されたものについては、自分の作曲ノートにデッサンを残す。これらをする目的はなんだろうか?
目的などない。それを行う必然性が自分の内側にあるだけであり、それを行う促しが今日やってきたからそれに従うまでだ。フローニンゲン:2018/4/27(金)20:02