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2477. 真善美の現れ


分からないなら、分かるまで書く。見えないなら見えるまで書く。何かが分かっても、何かが見えてもなおも書く。何かが全て分かることも見えることもないのだから。

書くことの意義と力が日ごとに露わになっていく。同時に、書くことに終わりはないのだということもすでに知ってしまった自分がいる。書くことは人生の最後の瞬間まで続いていく。

今日は一切風がなく、目の前に見える街路樹も静止しているかのようである。それでいて、生命の躍動感を確かに感じさせてくれるのだから、自然というのは本当に偉大だと思う。

静の中に動を見出し、動の中に静を見出す。そこから静も動も超えた境地を見出していく。

起床直後よりも空が晴れ渡り、午前中のフローニンゲンの空は快晴となった。随分と大きな飛行機雲が空に見える。その飛行機雲がある空はここから近くにある空なのだろう。

先ほど、真善美について少しばかり新たな気づきがあった。それらの領域は互いに独立しているが、相互に影響を与え合っている。それぞれの領域には固有の深さがあり、それは段階構造を持つ。

米国の思想家のケン・ウィルバーのインテグラル理論を基にすれば、それらの領域は平等に扱われる。しかし、ウィルバーが参考にしていたカントやボールドウィンは、美を司る領域を最上のものにしていたことをふと思い出した。

彼らの考え方の中に、何か大切なものが内包されているのではないか、自分は何か重要なことを見落としているのではないか、と思った。私自身が作曲実践を始めたためか、そして欧州各地を旅行しながら様々な美術館に足を運ぶことが多くなっているためか、真や善を超える何かが美の中に潜んでいるように思えて仕方ない。

もしかしたら、美というのは真や善の出発地点であり、なおかつ真や善の終着地点なのではないかと思えてくる。科学と哲学の探究に従事している際の自分を振り返ってみると、しばしば真や善の判断に美的なものが含まれていることに気づく。

限りなく真実なものには美が宿り、限りなく善なものにも美が宿る。そんなことを感じるのは私だけではないのではないだろうか。

普段科学と哲学の探究に力を注いでいながらも、今の私は芸術に強い関心が向かっている。芸術が科学と哲学を根底から支え、なおかつそれらよりも上位の場所に存在しているような感覚を最近感じる。芸術は科学と哲学の出発地点であり、それらの終着地点であるかのようだ。

日々の時間の流れが緩やかなのと同様に、自分の思考も緩やかに進んで行く。科学や哲学は語ろうとする。だが、芸術は語ろうとしない。これは大きな違いなのではないだろうか。

科学や哲学は語ることを通じて仕事がなされていく。一方、芸術は語ることをせずして仕事がなされていく。確かに芸術は、作品という形を通じて何かを私たちに語りかけてきているかのように思えるかもしれない。

しかし、それは語りかけてきているというよりも、より直接的に私たちの感覚に触れているだけに過ぎない。科学や哲学と芸術の間には大きな違いがあることが感覚的に明確になりつつあるのだが、その違いをうまく説明するための言葉が今の私にはない。

感覚が自分の言葉を凌駕している。いや、まさにこれこそが両者の違いの根元にあるものだと言えるかもしれない。

そうだ、科学や哲学は生々しい感覚を出発地点にしながらも、それを言葉によって純化していく。一方、芸術は生々しい感覚をその生々しさを残したままで私たちに提示してくる。

その提示を受けて言葉を紡ぎ出すか否かは芸術の知ったことではなく、それは私たちが勝手に行う行為に過ぎない。芸術がもたらす生の感覚。

芸術は私たちの直接的な感覚に働きかけ、私たちの存在を一掴みにしてしまう力を持っており、そうした力の一端を科学や哲学も持ち合わせているだろうが、それらは私たちに語ろうとするがゆえに、感覚に訴えかける直接性が希薄化される。

科学、哲学、芸術に関する探究をもっと真剣に推し進めていく必要がある。自分の中にはそれらの特質や意義に関して分からないことが山積みにされている。

だが、こうした少しずつ見えてきたものを書き留めていくことによって、それら三つの領域の奥深くに眠っているものが徐々に露わになってくるのを実感している。

先ほど暖房のスイッチを切った。書斎の窓を開け、空気の入れ替えを行っている。

確かに書斎に入り込む空気は冷たいが、自分の内側は熱を帯びている。真善美に満たされた生活。生きることは真善美の果てしない探究であって、実は生きることそのものが真善美の現れに他ならないと知る。フローニンゲン:2018/4/27(金)09:31

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