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2474. バッハとこれからの十年


今日も一日が充実感に満たされた形で終わりに差し掛かっている。毎日毎日が組成された形で静かに進行していく。

日々自分が行っていることは読むこと、書くこと、曲を作ること。そうした創造行為だけが自分の毎日の中にぽっかりと浮かび上がっているかのように思えることがある。

浮かび上がった創造行為を「自分のような自分でないような自分である者」が眺めている。今日という日が存在していたのか否かについては、正直なところ私は分からない。

だが、自分が書き留めた日記と今日作った曲を見れば、確かに自分が今日という日を生きていたということが分かる。生きるという実感は、何かを生み出す過程の中で徐々にその本質を露わにしていくのではないか。

生きるという実感も造形性を持つのだろうか。きっとそうだろう。

生きることの意味も意義も、自らがこの世界に対して創造行為によって参与することによって徐々に形になってくるのである。そう思わずにはいられない日々が続く。今日もそうした一日だった。

ここ最近、バッハの音楽をピアノだけではなくて、オルガンでも聴くようになった。よくよく考えてみると、もともとバッハは教会でのオルガン演奏用に数多くの曲を創造していたのである。

二年前の夏にライプチヒに訪れた時の記憶が蘇ってくる。バッハが実際に演奏をしていた教会とバッハ博物館を訪れた時の記憶が再び蘇ってくる。バッハのオルガン曲に耳を傾けながら、いつかまたライプチヒを訪れ、バッハが生きたあの場所に行く必要があると強く思う。

今日は昼食後に、バッハの曲に範を求めながら作曲をした。おそらく、いやほぼ確実に、バッハの音楽の中には何かが隠されているのだと思う。

実はバッハはそれを隠そうとしたのではなくて、明確な形で表に出そうとしたのであり、実際にそれは常に表に出ている。気づけないのは私の内面の成熟が足りないからに他ならない。

もっと深くバッハの音楽を理解したいと切望する。演奏家ではない私にとって、バッハの音楽を深く理解する最良の手段は、彼が残した楽譜に対して「実存的分析」を施していくことだろう。

知的な分析であってはならない。確かにそれは必要だが、それだけでは何も見えてこない。何かが見えるためには知的分析を超えていかなければならない。

存在の基底からバッハの音楽を掴むような実践が必要になる。ライプチヒのバッハ博物館で見た資料に関する記憶を辿ってみると、バッハはほぼ毎週新たな曲を作曲していたことを思い出す。

密度と強度の保たれた崇高な曲を毎週生み出すことができたバッハには深く感銘を受ける。今書斎の中に鳴り響いているオルガン曲もその一曲なのだ。

バッハでさえも、あるいはバッハであるがゆえに、彼は日々絶えず曲を書き続けた。その姿勢を深く深く見習う必要があるだろう。

もしかしたら、私が何かを真に始めるためには、自分に対してあと十年の猶予を与えていいのではないかと思い始める。いや、果たして十年かけて準備が整うのかさえも危うい。

唯一の救いは、自分がこの人生において何をすべきであるか、何をすべきでないのかが明確になりつつあることだろう。また、日々をいかに生きればいいのかということが明白なものとなり、日々の生活は徐々に、自分が真にその日一日を生きたと言えるほどの密度を持った時間の流れを持つようになった。

あとはこれを十年間継続させていくことである。それを妨げることから一切手を引き、そうしたものに一切関係を持たないようにする。自分の人生にとっての明日もおそらくあるような気がする。それは明日になったら分かることであり、明日を最大最良に生きた時に分かることだ。フローニンゲン:2018/4/26(木)21:54 

No.992:FlutteringPetals

It is already the end of May, but it is still cold in Groningen.

I can see petals fluttering in my mind. The dance is very vigorous. Groningen, 09:04, Sunday, 5/20/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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