憐れみ深い日々が自分の中で続いている。慰めと祝福が染み渡るような毎日が今日も過ぎていくのだと思えて仕方ない。
天気予報では昼食時あたりに雨が降るそうなのだが、今はそのようなことを一切感じさせないような空である。空はうっすらと晴れており、雨の予感など微塵もない。
先ほど過去の自分の曲を聴き返していた時、葛飾北斎と横山大観の名前が脳裏に浮かんだ。彼らは一生涯を通じて芸術探究に身を捧げた偉人である。
彼らが高齢になってからもなお一層精進に励み、絶え間ない自己批判をしながら前に進んでいた姿はとても励みになる。学術探究と同様に、芸術探究にも終わりなどないのである。
自己がどこまでも深まりを見せていくのに応じて、学術探究も芸術探究もどこまでも深まっていくのだ。今進めている学術探究も作曲実践も何も焦ることはないのだ。
ただ愚直に着実に、毎日それらの活動に取り組んでいくという継続性が大切になる。一つ一つゆっくりと深めていけばいいのである。
それが深化の原理であろうし、それ以外の形で深められるものはまやかしに過ぎないのだと思う。
数日前から、ここ最近編集が滞っていた過去の日記をまとめ直すということを行っている。気づかないうちに日記の数が2000を超えていたが、今編集に取り掛かっているのは500あたりの記事である。
ちょうどある記事を読み返している時に、その記事の下に執筆された日付が付されていた。この日を境に、私は自分の日記に日付を入れるようになった。
おそらくこの日に自分の中で何かがあったのだろう。自分の日記に日付を刻印しなければならないと思った何かがあったに違いない。
時間はかかると思うが、ここから少しずつ過去の日記の編集にも時間を充てていきたいと思う。
朝食の果物を食べている時、人は恐ろしいほどに自己と向き合うことをしないということに改めて気づいた。おそらく、人は自己と向き合うことをどこかで恐れているのだ。
私がSNSをほとんど使わなくなってから随分と時間が経った。本音を言えば、いつかEメールですらも使わないようにしたいと思っている。
SNSを使う衝動の裏には、自己と真に向き合うことへの恐れがあるのではないかと思う。SNSによる繋がりなど真の繋がりではないのではないか。SNSによる共有など真の共有では決してないのではないか。
そんなことを強く思う。SNSを使えるほどに成熟した人間と、SNSに飲み込まれる未成熟な人間の二つに分かれているように思え、そして前者のような人間は本当に稀だということを思う。
真の孤独さの中で自己と対峙することに恐怖感が付きまとうということはとても理解できる。自分自身を振り返ってみたときに、他国で何者でもないところから出発する体験は、孤独さの中で自己と対峙する機会であったように思う。
自己と向き合わざるをえないという体験は、もちろん苛酷であったが、それは私の成熟にとって欠かすことのできないものだったように思う。まやかしの繋がりを排除して、これからも自己と世界と対峙し、それを通じて自己と世界へ深く関わっていこうと思う。フローニンゲン:2018/3/21(水)08:58
No.901: Learning Music Theory
Although I have no intention to be an analyst for musical works, it would be intellectually exciting if I can understand each musical work in a deeper way.
To grasp music at a deeper level, learning music theory would be beneficial for me. Groningen, 18:22, Wednesday, 3/28/2018