先日、とても有り難い連絡を受けた。ある方から日記を読んでくださっているという趣旨の連絡だった。
確かにこのように日記を公開しているのだが、日記という本来の特性上、私は他者に向けて一切日記を執筆していない。しかし、究極的なまでに個人的な実践のその先に、普遍的な領域への道があることが分かりつつある。
私が日記を書き続け、それを公開しているのは、森有正先生や辻邦生先生が数十年前に執筆した日記に私自身が大きな励ましを得たように、数十年後の誰かに向かって何かを伝えようとしているからなのかもしれない。そう考えると、この日記は全くもって他者を意識していないとは言えなくなる。
日記という表現形式が持つ意義と力には日々考えさせられてばかりであり、同時に、私はその恩恵を存分に受けている。毎日小さな実践を積み重ねていくのと同じように、日記についても今後も継続していきたいと改めて思う。
その方からの連絡を受けて、久しぶりに自分の過去の日記を読み返し、編集作業を行っていきたいと思った。欧州に来た頃は定期的に日記の編集を行っていたのだが、いつからかそれを行うことをしなくなった。
もちろんその理由としては、学術研究と協働プロジェクト、そして作曲実践などに時間を充てたいという思いがあったことが挙げられるかもしれない。だが少し前に、この夏の休暇を利用して、一気にこれまでの未編集の日記をまとめていきたいと思っていたところだった。
夏を待つのではなく、これを機会に、今日から少しずつ過去の日記を読み返し、編集作業を行ってみたいと思う。過去の日記から触発されること、考えさせられたことなどを、また新たな日記として書き留めていく。
あるいは、過去の日記の追記として考えをまとめておくのもいいだろう。とにかく、今日からまた過去の自分の日記を読み返し、それを起点にして前に進んでいくということを行っていきたい。
結局今日の午前中はオンラインミーティングをした後に、以前作った曲を聴き返し、日記を少し執筆するだけで時間が経ってしまった。見方を少し変えてみると、そこにも何物にも代えがたい充実感が存在していることに気づく。
縁によって繋がった方たちとの対話と協働や創造的な実践に従事しているということ以上に何かを望む必要はあるのだろうか。
そろそろ昼食の時間が迫ってきている。窓の外をぼんやりと眺めていると、数日前にフローニンゲンの中心街を歩いていた時のことを思い出した。
厳密には、中心街から自宅に帰っている最中でのある出来事について思い出していた。街の中心部から自宅に向かっている最中の道路で、何やら工事が行われていた。
工事をしている道路の上を通ることができるように思われたので、私は特に何も気にせずに道路を歩いていた。すると、二人の工事員の男性が道路にレンガのタイルを並べている光景が見えた。
私は二人の後ろから前に向かって歩いており、ちょうど彼らの横に差し掛かった時にオランダ語で一言挨拶をした。私は全く気にもせず、彼らが並べているレンガの横を通るように歩き続けようとした。
すると、二人がオランダ語で私に向かって何かを注意するような言葉を発した。その意味が正確にはわからなかったのだが、その道は通ってはいけないことになっており、今からレンガを並べる道の上に足跡を付けないで欲しいというような内容だったように思える。
もう私は何歩も歩みを進めていたところだったので、大変申し訳ないことをしたと思った。せっかくならした道の上を私が歩いたことによって、彼らの仕事を増やしてしまったように思えたのである。
さらに、彼らがせっかく整備した道の上を歩いたことは、何か踏み絵を踏んだような気持ちを私に引き起こした。この一件から、人間の仕事に潜む尊さのようなものを実感していた。
一人の人間が行う仕事には尊さが内包されており、その尊厳を傷つけてはならないということを考えさせられるような出来事だった。フローニンゲン:2018/3/17(土)12:19
No.882: Being Derivative
I didn’t know that even Shakespeare took a number of plots from previous writers.
He might have been creative to generate something new from something old.
I’ll keep the current practice to be intentionally derivative for music composition. Groningen, 18:20, Thursday, 3/22/2018