季節が冬と春を行ったり来たりしているのを実感する。季節はどうやら揺れているらしい。
その様子を観察してみると、まさに季節は人間と同じであるように思える。季節も私たちも共に、揺れながらにして進んでいくのだ。
これまでの季節は完全に冬という安定状態にあった。そこから様々な要因の影響を受けて、安定状態から次の状態に向かって進み始めている。
季節が今経験している大きな揺れは、次の状態に向かうために経験しなければならない現象なのだ。季節はあと少しで春となる。そんな希望を胸に抱く。
ここ最近、自分の内側から泉のようなエネルギーが湧き上がっていることに気づく。それは何か激しいものというよりも、静かでありながらも無限に沸き立つエネルギーだ。
これはもしかすると、私たちが持つ生命の根源的なエネルギーなのかもしれない。季節が春に近づいていることと、こうしたエネルギーを感じていることには何か関係があるのかもしれない。
生命の躍動を感じられる季節に向けて、今日も一つ一つ、自分の取り組みに従事していきたい。
昨日、久しぶりにスティーヴ・マッキントッシュの“Integral Consciousness and the Future of Evolution (2007)”を最初から読み返すことにした。確かこの夏に一度、途中の数ページを読み返すことがあったが、一度通して読んだのは私がジョン・エフ・ケネディ大学に在籍していた頃であるから、今からもう七年前ぐらいのことになる。
昨日から、本書を最初から読み返し始めた。読み進めてみると、いろいろと新たな発見があり、自分の考えをさらに深めてくれる記述が豊富にあることに気づいた。
マッキントッシュの文章を読みながらいくつか考えていたことがあった。その中でも、発達心理学者のハインツ・ワーナーが提唱した発達の原理「差異化と統合化」について思うことがあった。
これまで明記していなかったが、差異化というものが病理的な形で推し進められるとそれは「分離」を招くという点を押さえておく必要があるだろう。つまり、健全な形でなされる差異化は、新たな自己を創出していく上で不可欠なのだが、病理的な形で過度に推し進められる差異化は分離を招いてしまう。
これは自己を創出するというよりも、自己を破壊する現象として捉えることができる。一方で、統合化に関しても、それが病理的に推し進められると、「融合」という現象を招く。
発達現象における融合とは、二つ以上のものが単に合成されるだけであり、そこから新たな機能や価値を生まない現象のことを指す。これら二つの点についてはこれまであまり説明していなかったように思う。
ここからもう少し踏み込んで考えると、そもそも差異化や統合化が「病理的な形で推し進められる」というのはどういう意味なのだろうか?端的に述べると、以前の発達段階の何を引き継ぐ必要があり、何を引き継いではならないのかの峻別ができていない状態のままに差異化や統合化を行ってしまうことが、「病理的」という言葉が指す意味である。
発達とはまさに「含んで超える」という原理に基づいてなされるものだが、何もかも含んでいけばいいかというとそうではない。そこには含んではならないものが存在しているのである。
それを見誤る時、差異化も統合化も病理的になされ、それが分離や融合を招く。特に後者に関しては、ポストモダン的な発達段階(後慣習的段階・相対主義的段階)が陥りやすい現象である。
ポストモダンの病理的な側面はまさにそれであり、これは昨今企業組織の中でも顕在化しつつある。例えば、ダイバーシティの推進というのはその一例になりうる場合がある。
企業社会において多様化が叫ばれているが、これはポストモダンの病理的な側面として現れている可能性があることに注意が必要だろう。つまり、多様性を受け入れることを盲信するあまり、多様な個人を単純に受け入れる動きが見られる点には注意を要する。
そもそも個人とは多様性のある存在であるが、そうした多様性を持つ個人の発達課題や病理的側面を峻別することができないままに、多様な個人を受け入れようとしてもそれはうまくいかないだろう。おそらくそれは、多様な個人の単なる寄せ集めに過ぎず、融合の範疇にとどまり、多様な個人が相互作用を生み出すような統合には至らないだろう。
多様性を受け入れるにあたって、個人の特性や各発達段階が持つ固有の価値の重み付けができていない社会的な状況を見てみると、ポストモダン的な(相対主義的な)発想の罠に多くの人や組織が絡め取られているように思える。
確かに、ポストモダンの発想の枠組みは、この現代社会においては高度な発達を遂げたものなのだが、結局その段階の発想の枠組みでは、多様性を認めるだけ認めておいて、多様な個人への具体的な関与方法や仕組みを考案するに至らない。そして往々にして、多様性を真に引き受ける責任感に欠ける。
発達現象に潜む病理的側面を見抜く洞察を獲得すること、および低次の段階を誤って大きく価値付けてしまう「前超の虚偽」に陥らない形で各段階の価値の重み付けを行えることは、とりわけ相対主義的段階に突きつけられた発達課題であるように思う。
ダイバーシティの問題というのは、まさに相対主義的段階の課題を解決することでしか乗り越えていくことができないように思える。フローニンゲン:2018/3/16(金)08:10
No.876: Research Progress
I had a meeting with my supervisor about my research.
This research meeting is always thought-provoking, and so today’s meeting was.
I could clarify what I’ll do next. My next step is to find a couple of articles for each of the three metrics that I’ll utilize in my research.
I should carefully investigate articles to validate the use of these metrics. I’ll work on it this Sunday.
In addition to finding some articles, I want to investigate the possibility to apply the notion of semantic distance, which my supervisor introduced me today.
Although I have to avoid complex semantic analysis in this research, I can apply the essential idea of semantic distance.
What I need to do is to grasp the definition of the concept and the way of computing data. I’ll search some articles on the topic this Sunday. Groningen, 16:39, Wednesday, 3/21/2018