今朝方の夢について、今また少し考えを巡らせている。とりわけ目覚める瞬間の場面が印象に残っており、夢の中でさらに深い夢の世界に落ちるという現象はどのような意味を持っているのだろうか。
この現象を自覚的に捉えることができるようになったのは、欧州での二年目の生活が始まってからだったように思う。夢の中で、自分が眠りに落ちる瞬間というのを捉えることができるようになり、一方でそこからさらに深い眠りの世界に行くことを拒絶するような自分がいるのも確かだ。
今日もまさに、私は夢の中でさらに深い夢の世界に落ちていくことを拒んでいた。なぜそれを拒んだのか、そしてさらに深い夢の世界はどのようなものなのかに関する関心は絶えない。
思い出してみると、夢の中でさらに深い眠りに落ちる直前、自分の心身がとても重たく感じられた。あるいは別の表現で言うと、心身が脱落する感覚があった。
「身心脱落」という本来の意味は、自己が身と心の束縛から解放され、真の自己に至ることを指しているのだろうが、夢の中でのそれは何かためらわさせるものを含んでいた。もしかすると、心身が脱落し、深い夢の世界に入っていくことは真の自己へ近づいていくことなのかもしれないが、それを行うことを拒絶していた自分がいることからも、事態はもう少し錯綜としているようだ。
夢見の意識から夢を見ない深い意識に移行することは、サトル意識からコーザル意識への移行だと説明されることが多い。まさに私は夢の中で、コーザル意識に入っていく自覚があり、そこに入っていくことを自覚的に拒んだ。
夢すらも見ない深い眠りの意識の世界には何があるのだろうか。インドの聖者ラマナ・マハリシの言葉に、「夢を見ない深い眠りの意識の中で目覚めていない者は本当の覚者ではない」というものがある。
真に自己に目覚めた者は、コーザル意識のさなかにあっても自覚的な意識を保つことができるようだ。それはこれまでの私には到底不可能な芸当のように思えたが、ここ最近コーザル意識に入る直前の状態を捉えることが可能になり、そこに参入することを自覚的に拒むことができつつある自分を見ていると、夢を見ない深い眠りの意識の中で絶えず目覚めていることは不可能ではないように思えてくる。
コーザル意識に関して今は特に仮説のようなものはなく、どのようにすればその意識状態の中で絶えず気づきの意識の状態を維持しうるのかに関する仮説的な方策も特にない。ここからさらにコーザル意識について理解を踏まえていくためには、コーザル意識に参入する寸前を自覚する体験をもう少し積む必要がありそうだ。
起床直後に出ていたうっすらとした雲は消え、今は青空が広がっている。今日は少しばかり風が強いようであり、裸の街路樹の木々が風に揺られている。
私という自己も、今日も左右前後に揺られながら、進むべき道を歩き、行くべき場所に向かって進み続けていく。フローニンゲン:2018/3/15(木)08:34
No.868: Diary-Based Teaching
It might be intriguing to me that I can offer a lecture based on my diaries.
Of course, the purpose of writing a journal is not to give a lecture.
However, I suppose that traditional teaching based on academic texts is not so alive.
It often lacks vital energy that has to exist in curiosity. Groningen, 09:22, Monday, 3/19/2018