エメラルドブルーの美しい空がフローニンゲンの夜空に広がっていた。夕食を撮りながら、私はその空を感慨深く眺めていた。
日記を書くことに関してふと、構築された自己をさらに探求するような無意味な形で言葉を紡ぎ出すのではなく、そうした自己を超えた存在の言葉を翻訳する形で文章を書いていく機会が増えてくるかもしれないと思った。
先ほど、「自分は一体何者であるのか?」という問いからそろそろ離れる時期に差し掛かっている自己を見た。この問いはおそらく幾つになっても大切なのだろうが、そうした問いをもとにした自己探求なるものだけを続けては意味がないと思った。
自分が一体何者であるのかと問いたくなる気持ちは重々理解している。先ほども私は、日本語で構築された自己性と英語で構築された自己性の狭間に入り、それらの両者を中空の視点から捉えていた。
また、両親が与えてくれた自分の名を眺めた時、その名を付して生きているその人間は一体誰なのかと問いたくなるのも理解できた。日本、米国、欧州で構築されたこの自己なるものは、いずれも建設された何かであることは疑いようがない。
「では、それを建設した存在は何なのか?」というのが焦点だ。それは名を超えた自己とほぼ同義なのではないかと思う。
時刻が夜の七時半を過ぎた頃、フローニンゲンの空はようやく暗くなった。日は伸びる一方だが、気温は相変わらず低いというのが、今のフローニンゲンの様子だ。
「フローニンゲンで自分は一体何をしているのか?」と問いたくなる自分がいるのは理解できるし、それはいつものことである。もっと本質的な問いを投げかけることはできないのかと問い返したくなるが、それはそれで大切な問いなのかもしれない。
もしかすると、私は相も変わらず毎日、フローニンゲンに自分がいることの意味やここでの日々の活動一つ一つの意味を問い続けているのかもしれない。この不毛にも思える問いの流れに組み込まれることによって、少しずつではあるが、毎日一つ一つ新たな意味が見えてくる。
意味ほど無限の広がりと深さを持っているものは他にあるのだろうか?
今日の昼食後、フローニンゲンの街の中心部を歩いている時、この物質消費的社会の有り様に違和感を覚えている自分がいた。なぜ人々は有限な物品を求めようとし、どうして無限の広がりと深さを持つ意味を求めようとしないのか。
いや、意味など求めようとしてはいけないのだ。意味は既製品として獲得されるものではなく、意味は新しく創造されるものだ。
そして、意味は無限に深められていくものである。物質消費的な社会の様相が色濃く現れた街を歩きながらも、幸せな瞬間があった。
それは、街の中心部の市場付近にある路上の花屋に置かれた花々を見た時だった。おそらく、そこに置かれた花々も、それが売買される対象であるから物質消費的な社会の産物であることには変わりないのかもしれない。
しかし、花々の香り、そしてそれらが発する何とも言えない存在エネルギーに対して、私はその場で足を止めざるをえなかった。その花屋は私が心から落ち着ける場所の一つなのかもしれない。
この世界には、局所的にそうした場が点在している。社会全体がそうした場にならないだろうか。
関与の問題。自分の仕事に関しては、毎日毎日問い続けなければならない。
自己を探求することから、いかにこの社会に参画・関与することを模索するようになったことが、欧州での二年目に起こった大きな変化の一つだろう。この社会に真に参画するためには、真に関与を開始するためには、まずは自分が何者であるかを理解し、何者かになる必要があった。
自分という存在が何者であるかというのは、今後は自分から問うというよりも、この世界から問われるべきものであり、それに行動を通じて応えていくことが大切なのだと思う。
“spirits in action”という言葉。これは、私が米国ジョン・エフ・ケネディ大学にいた時に初めて目にした言葉であり、七年前の私には全く意味がわからなかった。
文字としての意味なら誰でもわかるだろうが、その深層的な意味は当時の私にはわからなかった。しかし、今ならその言葉の意味がわかるように思うのだ。フローニンゲン:2018/3/14(水)20:04