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2264. この世界に仕えて


今日も確かに自分は生きていた。そんなことをふと思う。

時刻は夕方の四時を迎えた。フローニンゲンの街において、この時間帯から午後の五時に向けてが一番気温が上がる。

今の気温は10度近くに達している。太陽の光が燦然と輝き、どこか自分が天上界にいるような気持ちになる。

それぐらいにこの世界が輝いており、その輝きは内面世界の全てを包んでいる。

今日の昼食時に、行きつけのインドネシアレストランに立ち寄った際、店主の女性が「ようやく暖かくなってきたわね。これで人々も抑鬱的な表情から明るい表情になるわ」と身振り手振りを交えながら笑って述べていた。本当にその通りだと思う。

欧州での二年目の生活において、私は特に抑鬱的な精神状態を経験しなかった。それは欧州一年目に洗礼のように十分に経験した。

欧州の二年目の冬は、自分の精神がまた一歩別の次元に深まっていたような感覚があり、特に自覚的に抑鬱症状を感じることはなかった。しかし、今日インドネシアレストランの店主の話を聞いて、もしかしたら今の私が感じているこの何とも言えない解放感というのは、抑鬱的な状態から次の状態へ移行していることの印なのかもしれないと思わされた。

そのようなことを思った時、一昨日の夜に考えていたテーマを思い出した。それは自我の拡張に関するものであった。

言い換えると、寝床で自己肥大化現象について考えを巡らせていたことをふと思い出したのである。私はよく、自分の自己が肥大化する現象を感じることがある。

厳密にはそれは自我と述べた方がいいのかもしれないが、あえて自己と記しておく。こうした日記を書いている際、知らず知らずに自己が肥大化し、その肥大化した自己を通じて文章を書こうとする自分が姿を見せることがある。

一方で、そうした自己の肥大化現象が起きた際には、それを正す自分が常に存在するようになった。これは肥大化した自己を抑圧するのではなく、それを完全に切り倒し、新たな自己を一から構築することを仕向けるような力を持つ自分の別の側面である。

以前、自己に批判の矢を向ける自分について批判する日記を書き記していたように思う。そこでは自己に批判の矢を向けるのではなく、なぜ矢を射ることをしないのか、という反語形式の自問がなされていた。

もう自己に批判の矢を向けるような甘さを捨てようと思う。自己は自らの批判の矢に射抜かれなければならない。

そうでなければ、自己に付着した諸々の幻想的な構築物を振り払うことなどできはしない。「批判の矢に射抜かれなければならない」というのは、社会慣習的な文句ではない。

そんなべき論は、今の私には全く役に立たない。ここでの命令は社会慣習的なものでは決してなく、自己が自己を超え出て行く際に不可欠なものである。

とにかく矢を自己の中心に向かって射抜こうと思う。そんなことを一昨日考えていたことを思い出していた。

毎日毎日毎日、自己がどこか遠くの世界に向かって歩き続けていることを知る。この自己をそろそろ本当に信じ、全てを委ねてもいいのかも知れない。

この世界への見えない執着が自分の中にあることを嫌というほど思い知る。自分の日々の歩みは、この世界に遣わされた者としての歩みであることを最近強く実感している。

この感覚は、自分の生き方や人生観というものを大きく変えるきっかけになっている。今日行った一つの仕事。それは確かに自分が成し遂げた仕事なのだが、果たしてそれは本当だろうか?という問い。

私は、自分が何かこの世界の大きなものに仕えているような気がするのだ。この感覚は単なる自己肥大化によってもたらされるものではないように思える。むしろ、肥大化した自己を制し、自己を超越し始めた際に体験される感覚なのではないかと思うのだ。

フローニンゲンの空の太陽はまだまだ光り輝いている。フローニンゲン:2018/3/14(水)16:32 

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