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2239. 夢の解釈


起床直後はどんよりとしていた空も、七時を過ぎると青空が顔をのぞかせ始めた。雲の一部に朝日が当たり、その部分が薄桃色に染まっている。

その雲はゆったりとした速度で空を歩いている。

今朝方見た夢についてまた少し振り返っていた。印象に残っているどちらの場面も大変興味深い。

雪原の中にある橋とその下にある凍った河の情景が再び蘇ってくる。そして、凍った河の下には何かあるに違いない、と思った自分の直感について再度考えを巡らせていた。

結局、凍った河の下には何があったのだろうか?夢から覚めて一時間経った今も、それについて気になっている。

凍った河の下に未知なものが存在しているのであれば、それはもしかすると今後の自分自身であり、今後の自らの人生全体と言えるかもしれない。河の下には何か特定のものがあるというよりも、一つの得体の知れぬ巨大な全体があるという感覚がしていた。

部分ではなく全体。そのようなことに考えを巡らせていると、河の下に広がっていたのは、新たな自分という未知なる全体であり、新たな人生という未知なる全体だったのかもしれないと思う。

今日という一日の自分、そして今日という一日そのものは、部分でありかつ全体なのだ。部分と全体という二つの側面を持つ自分と一日が、今日もまた未知なる方向に向かってゆっくりと歩き出している。

二つ目の夢の場面で見た謎の生命体。そして、それを隠した棺桶について。

二つが象徴していることもまた非常に興味深い。それら二つは間違いなく何かを象徴していると思うのだが、それは何だろうか。

ここでも、「仮にあの謎の生命体が実は自分という存在であったらどうだろうか?」というような問いを立ててみた。謎の生命体がゆっくりと成熟の方向に向かっていく姿を思い出す。

そして私の友人が、「この生命体が完全体になるまでには少なくともあと数十年、もしくは百年ぐらいかかるよ」と言った言葉を思い出す。あの謎の生命体が自己そのものを表しているのであれば、それが成熟していく時間の長大さにはうなづけるものがある。

また、あの謎の生命体が少しずつ着実に成熟の方向に向かっていたように、私という存在も日々成熟の方向に向かっているのかもしれないと思う。一方で、「そうした謎の生命体を棺桶に隠した意味はなんだったのか?そして、あの棺桶は何を象徴していたのか?」という問いが新たに立つ。

前者に関しては、もしかすると生命体というオープンシステムに対して、あえて外界に開かれすぎることのない場所を提供したのかもしれないという考えが芽生えた。基本的には、生命体というオープンシステムは外界との絶え間ない相互作用によって発達を遂げていく。

しかし、外界に対して無謀に開かれすぎているというのは、実は生命体の命を奪うことにつながってしまうことや生命体の生命機能を弱体化させてしまうことにも繋がりうる。そのようなことを考えていると、棺桶に生命体を隠すという行為は、自己の存在を外界に無防備に晒すことの危険性を暗示していたように思えてくる。

この現代社会は私たちに種々の開示を絶えず要求し、社会そのものも含めて、オープンであろうとすることをある意味強制している。無防備に外界に自己を開くというのは無謀な行為ではないだろうか。

そのようなことを思わずにはいられない。

最後に、あの棺桶は自己にとって何であろうか?ということを考えていた。それはおそらく、自己にとっての安全基地であり、それは今の自分にとって何であろうか。

ふと出てきた回答は、「それは物理的なものでは決してなく、自らの言葉の世界と音楽世界なのではないか」というものだった。自己の安全基地は物理的にこの現実世界に存在しているのではなく、自らが生み出す言葉と曲が作り上げる空間なのかもしれない。

逆説的だが、それが棺桶として夢の中に現れていた以上、言葉と曲を生み出し続けることは人生の最後の瞬間まで自らが行う使命であり、棺桶の中から外に出る瞬間というのは、この人生を終えた瞬間なのではないか。フローニンゲン:2018/3/9(金)07:46      

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