今週も週末が静かに終わりを告げ始めた。時刻はもう少しで夜の八時を回る。
日々いかなることがあったとしても、それは全て自分の人生というプロセスの一部として尊いものであるという認識が日増しに強くなる。自分が自らの人生を歩いているというよりも、歩く主体と歩かれる道というのはもはや一体なのではないかという考えが湧き上がる。
確かに日々、私は私として生きているのだろうが、欧州での生活はそうした私を超えて、自分自身と自らの人生を完全なまでに一体化させようと促していくる。言い換えると、それがまさに、歩く主体と歩かれる人生との完全なる一体化である。
そこから私はさらに、もはや歩く主体と歩かれる客体とが同一化した生き方というものさえも超えていく方向に進んでいるのかもしれないと思う。自己をどこまで知ろうとしても、不可知の領域があり、自分の人生をどこまで知ろうとしても、不可知の領域がある。
今は、そうした自己と人生の不可知性に完全に何かを明け渡したかのような感覚がある。自己も人生も、明日はまた未知なる一歩を踏み出していく。
自己と人生の双方から、自分の認識の眼が外にはみ出て、それらを見守っているような感覚が意識を包んでいる。今日は少しばかり不思議な夜だ。
結局今日もまた、一日中バッハの音楽を聴いていた。昨日に引き続き、12時間ほどバッハの音楽を聴いている。
今朝方、自分が以前に作った曲を聴いていた。バッハを含め、過去の偉大な作曲家の楽譜をスキャフォールディングとして絶えず曲を作っていく日々。
純粋な学術研究や企業との協働プロジェクトとは異質の実践領域に自己を投げ入れることの大きな意義。その意義がいかに大きなことであるかは、ここで説明する必要はないだろう。
あと数年間は、毎日愚直に過去の作曲家の作品に範を求めながら曲を作っていく日々が続くだろう。
作曲実践の際にいつも私が行っているのは、過去の自分の曲を聴き返すことだ。これは強制的に行っているのではなく、もう自発的な習慣になっている。
自分の曲を聴き返してみると、いつも色々な発見と気づきを得る。当然、自らが作った曲にフィードバックを投げかけるのだが、むしろフィードバックをする主体は私ではなく、すでに生み出された自分の作品であるかのようなのだ。
つまり、作品が私に対してフィードバックをしてくるのである。それはもちろん、作曲の技術的な事柄が主であるが、それだけではなく、端的には自らのあり方や生き方に対してフィードバックをしてくる。
そしてさらには、自己を超えて、この社会に対して何かをフィードバックしようとするような意思と力を感じることがある。私はこうした体験を小さく積み重ねていく中で、芸術作品が持つ社会的な力について少しずつ希望を見出している。
これは偶然にも今日の早朝に書き留めていたことと関係しているが、「文筆活動に何ができるのか?」という問いと共に、「芸術に何ができるのか?」という問いは、私の中で大きく立ちはだかるものであった。
だが、自らの作曲実践と曲からの自己と社会へのフィードバックを眺めてみると、人間が創出する芸術作品には何かしらの力があるのではないか、そしてそれはこの社会への関与につながる力なのではないか、ということを少しずつ思い始める自分がいる。
早朝に見えていた満月はこの時間帯には見えず、何も無い真っ暗闇な空が広がっている。もう何も付け加える必要はない。
私は、目の前に広がる真っ暗闇の空の向こう側の世界をすでに知っている。フローニンゲン:2018/3/4(日)20:05
No.841: A Dream Jellyfish
It is becoming warmer and warmer in Groningen.
In such a day, it is not impossible that a dream jellyfish emerges. Groningen, 10:50, Thursday, 3/8/2018