今日も気付けば日が暮れて、一日が終わりに差し掛かっている。午前中に日本企業との協働プロジェクトに関するミーティングを行い、午後からは共著で執筆中の書籍の原稿を読み返していた。
また、以前リクルートマネジメントソリューションズさんの企画である大人の学びプロジェクト(通称「オトマナ」プロジェクト)で中竹竜二さんと対談をさせていただいた時の対談原稿に修正を加えることを行っていた。
そうしたことを行いながら、自分の研究を前に進めるために、時系列データ分析に関する“Introductory time series with R (2009)”という専門書を最初から最後まで一読した。本書で掲載されている数多くの数式に圧倒されることはなく、むしろ解説文が充実していたためか、各章を食い入るように読み進めることができた。
本書で掲載されている手法のいくつかは、早速金曜日のインターンの際に活用しようと思う。本書を読みながら気づいたが、自らの感情が動かされる書籍や論文を読んでいくことがいかに大事かということである。
学習とは感情が動かされることによって初めて実現されるものなのではないか、ということを思う。学びというものがある段階から次の段階に向かっていく運動であるならば、その運動を推進するのは学び手の感情なのではないだろうか。
とにかく私は、自分の感情が動かされない書籍や論文を読まないようにする。そうしたものに目を通すことは、自らの感情が動かされないがゆえに、死物と化した学びだと思う。
この点と密接に関係して、著者の実存性が感じられる書物や論文を中心に読んでいくことも大切になるだろう。文献の中に著者の呼吸と鼓動が感じられないようなものを読む意義はどこにあるだろうか。
文献を通じた学びには、必ず触発のようなものが必要であり、それを死物と化した文献から得ようとするのは至難の技だろう。
今日も改めて、学びに関する基本的な事柄、すなわちアウトプットの重要性について考えていた。本日、Rを用いた時系列データ分析の手法について書かれた専門書を読んでいた時、それを早く実際の自分の研究の中で適用してみたいという気持ちと、実際にそうした実践をしてみなければ真の知識は獲得されえないことを考えていた。
その専門書を読むことはインプットであり、本来であればインプットをするたびごとに振り返りを行うことが必要なのだろう。しかし、実際に自分でその知識を活用してみなければ、私の場合はそうした振り返りを行うことが難しい。
当然ながら、書物の内容によっては、記載内容から得られた考えなどをすぐに文章の形にすることはある。しかし、それは思っている以上に実行することは難しい。
私に合った振り返りは、やはり知識を活用した実践の都度に行う振り返りなのだろう。また、何かアウトプットを生み出した都度、それについて振り返りを行っていくということも自分に合っている方法かもしれない。
そのようなことを考えながら今日を振り返っていた。フローニンゲン:2018/2/20(火)19:39
No.787: The Difficulty of Expression
What do I want to express? What do I want to tell?
The difficulty is almost the same in my academic research and music composition.
The intricacy of expression might be universal in any domains. Groningen, 21:42, Wednesday, 2/21/2018