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2064. 自閉症という現代病


独り、独り、独り。世界のどこで何をしていようが、自分が独りだという意識が時に噴出する。

自分が究極的に独りであり、独りであることは逆に独りではないのだということに気づいている自分がいるのは確かだ。

自己と他者および世界との関係に関する問題。欧州での生活の中でその問題はもう何度も考えたはずだ。

だが、今日もまたその問題に向き合っている自分がいる。今日を生きる中で、自分の認識世界に入り込んだ人たちを一体どのように捉えたらいいのだろうか。

彼らとの関係性をどのように捉えたらいいのだろうか。母国にいても、世界のどの国にいても、意識ある自己が生きている空間において、私は独りであることを強く突きつけられる。

自己と世界との究極的な一体感を時に得ることがあるのは確かだ。だが、それは私の日々において絶えず起こっているわけではない。

日常の大半は、私は小さな自分の自我の世界の中に閉じこもった形で生活をしていることを認めなければならない。今日、インターン先のオフィスからの帰り道、近くの河川敷沿いのサイクリングロードを歩いていた。

まだ日が暮れておらず、夕日が残った青空に飛行機雲が浮かんでいた。それは私の中で、“perception 1”と括られた。

それ以降、視界に入る全ての物・人が、“perception N”のオーダーで括られていった。すれ違う人や河川の上を飛ぶ鳥、河川敷に咲く草木も “perception”に過ぎなかった。

そしてあろうことか、最後には、私自身も“perception”とみなされるようになった。そこで私はもう一度、広大に広がる空を仰ぎ見た。

するとそれは “perception”で括られることなく、何も名の付けられぬ存在としてそこにあった。今はそれを「空(そら)」だと述べることができるが、その時の私には、その空なるものは「空(そら)」ではなかった。

名前のない、あるがままの裸体としての存在がそこにあった。それはもしかしたら、「空(くう)」と呼ばれるものなのかもしれない。

河川敷を歩きながら、自己の孤独性と自閉性について考えていた。そういえば、今日はオフィスでデータ整理に没頭している最中に、一度ふと、学術コミュニティーの閉鎖性について憤りを感じていたことを思い出した。

「自閉的な専門馬鹿は馬鹿にすぎないが、領域を超えた対話のできる専門馬鹿は馬鹿ではない」という考えが脳裏をよぎっていた。そこから思考が広がり、学術世界の人間を見るにつけ、どうしてこうも自閉的な人間が多いのだろうか、というある種の自らの心理的投影とも呼べるようなことについて考えていた。

自らの専門領域から一歩外の領域に足を踏み出すことのできない人間や、領域を自由に越境して対話と協働を行える人間が少ないのはどうしたものかと考えていた。結局、学術世界にいようが、企業社会にいようが、多くの人間は自閉的であり、その世界での言語世界しか知らず、その言語固有のルールと限界に盲目的過ぎるのではないだろうか。

自らの自閉的側面は認めることができるが、結局は、現代人の多くはどの領域にいようとも多分に自閉的なのではないかと思う。現代の多くの社会的な病の根源はこうした自閉的な側面にあるのではないだろうか。フローニンゲン:2018/2/19(月)21:01 

No.783: Distributed Intelligence

I came up with a question: Can we alter or manipulate distributed intelligence in society?

Ants seem intelligent, but they are not exactly because their behaviors are just derived from a path generated by distributed intelligence.

Here, if someone changes the path, the behaviors of all ants are altered. Groningen, 17:20, Wednesday, 2/21/2018

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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