絶え間ない学びを希求する自己と、巨大かつ堅牢な知識体系を内側に構築し続けようとする自己の問題についてここ数日ばかり考えていた。その問題を提起したのは、アーネスト・ベッカーの書籍である。
ベッカーの書籍の中に直接的にその問題が扱われていたわけではない。ベッカーの記述をもとに、私が自らを省みてなされた問題提起であった。
知識という抽象的な産物を絶え間なく求めようとする行為と、本質的には単なる抽象記号に過ぎない金銭を求めようとする行為は全く同じなのではないか、という問題提起が自分の中にあった。どちらも自己の生命の有限性からの逃避と密接に関わっており、死の拒絶の表れなのではないかと考えるようになった。
そもそも、金銭にせよ、知識にせよ、それらは抽象的な産物であり、それらが抽象的な記号であるがゆえに無限に増殖しうる。その点において、無限なものを盲信的に獲得し続けようとする自己はもしかすると死からの逃避を行っているのではないか、と思ったのだ。
私の中では、金銭の虚偽性については知的理解のみならず、金銭の呪縛からほぼ脱している状態に至っていると思うようになっていた。だが、知識に関しては話が別であった。
金銭も知識も似た性質を持っており、どちらも永遠を求めようとする人間心理を駆り立てるものであり、どちらもある種の権力と密接に関わったものであるという気づきが芽生えて以降、飽くなき学びを継続する自己に対して検証の目が向かった。
本格的な検証の目が向かったのは、まだ数日前の出来事である。しかし、その問題提起に対して、私はその指摘の正しさを部分的に認めながらも、断固として学び続けるという姿勢を崩さないことにした。
この姿勢が死の拒絶だと言われようが、永遠性への飽くなき希求だと言われようが、それらは全く問題ではない。ただし、私は自らが持つ生涯を賭けて学び続けようとする姿勢に対して一つだけ条件を付した。
仮にその姿勢が、一個人の死からの逃避から生まれたものであり、有限な人間存在が持つ叶わぬ永遠性への希求から生まれたものであっても良いのである。私が課した条件は、とにかく獲得・構築された知識をもとに社会参画せよ、というものだった。
人生を賭けて獲得・構築した知識をもとに社会に関与し続けるという条件を自らに課した。とにかく人生の最後の瞬間まで、私は学ぶことをやめないだろう。
それが死の拒絶であったしても、知の獲得による権力欲の充足と密かに結びついていたとしても、そうしたことが絶えず付きまとうのが人間の性なのではないだろうか。
自らのそうした側面、すなわち人間としての条件というものを冷徹に認めなければならない。その条件の上に、自ら課した条件を付加するのである。
学び続けるというのは、社会へ参画し続けるということの表れに他ならず、そうでなければならない。でなければ何のための学びなのだろうか。フローニンゲン:2018/2/19(月)20:42
No.782: “Introductory Time Series with R (2009)”
I finished reading “Introductory Time Series with R (2009).” The book is quite useful for my current research because I plan to apply time series analysis.
Although this book presents a number of mathematical equations, the explanations are clear.
This book enabled me to acquire basic concepts of time series analysis and to solidify my previous knowledge on the subject. Groningen, 15:52, Tuesday, 2/20/2018