先週末にアーネスト・ベッカーの書籍を読んでいる最中に、心理学者のオットー・ランクの仕事に触れることがあった。ベッカーの書籍に引用されているランクの書籍を調べてみると、いくつか興味深いものが見つかった。
中でも、ランクの芸術論に関する書籍は私の関心を強く引いた。芸術とイデオロギーの関係、芸術と社会との関係、そもそも芸術がこの世界に果たす意義と役割は何なのか?という関心が相まって、ランクの芸術論に関する書籍を購入した。
芸術と人間発達についての関心が高まるに応じて、芸術と個人の思想のみならず、集合的な思想との関係性や芸術が持つ社会性について考えを深めていきたいという思いが強くなる。芸術を通じた人間発達は今の私にとっておそらく最も関心を引くテーマであり、芸術とイデオロギーや社会との関係は切実な関心事項である。
それは芸術と人間発達を探究することの意義に関わるものであるし、私自身が一人の表現者として文章や曲を作ることの意義と密接に関わるものである。
昨日は一日中インターンの仕事があったため、日中に作曲実践をすることができなかった。帰宅後、夕食を摂り終えてひと段落してから作曲実践に取り組んだ。
昨夜はバルトークとバッハの曲に範を求めた。ここでまず一つ面白いことに気づいた。バルトークの『ミクロコスモス』は子供やピアノ演奏の初心者に向けて作られたものであるがゆえに、一つ一つの曲に込められた意図というものが今の私にでも比較的明確に分かる。
バルトークが作品に込めた意図を理解しながら自分の曲を作っていくということを行った後、バッハの曲に範を求めた。その時に、確かにバッハが作品に込めた意図が見えることがあるのだが、それはバッハが込めた意図の全体のうちごくごくわずかな部分に過ぎないことに気づく。
バッハの曲は、自分の理解を遥かに超えた場所で作られている、ということを切実に感じる。そこから私は、模倣の困難性について考えていた。
「守破離」の思想にあるように、どのような実践においても、優れた先例から型を学んでいくことは重要だろう。まさに今の私は作曲実践に関して、模倣を通じた型の習得に励んでいる段階である。
この件をきっかけに、芸術の領域に絞って「模倣」というものについて考えていた。すると、作曲や文学は、一つの曲や一つの文学作品を完全に同一のものとして筆写することができるということにまず気づく。
作曲であれば、譜面に同一の音階の音符を並べていくことが可能であり、文学であれば一字一句同じ文言を書き写すことができる。思い返してみると、作曲ソフト上にそのような形で完全に一つの曲を再現する形で型を身につけようとしていたことがあり、今では一曲全てではないが、曲の部分に関しては実際に作曲ソフト上で再現をしてみるということを行っている。
一曲全体を再現することは、完全な模倣であり、後者に関してはそれが部分ではあっても、部分の完全な模倣である。文章の執筆においても、そういえば私は一時期、英語と日本語の双方において自らの文体を確立するときに、何人かの執筆家の文章をひたすら手書きで書き写すことを数年間ほど行っていた。
ここでも文章を一字一句書き写せば、それは完全な模倣となる。一方で、絵画だけはそうした完全なる模倣が不可能なのではないかと思った。
ある作品に範を求めて筆を取り、いざその作品を模倣するために描き始めると、それが完全に元の作品と一致することはないだろう。絵画に関しては、完全なる模倣というものが不可能なのだということに気づく。
それが絵画における模倣の困難さであると思った。そこから私は、作曲や文章の執筆に関する模倣の困難性について考えていた。
確かに、作曲や文章の執筆では上述のように完全なる模倣が可能なのだが、完全なる模倣が可能であるがゆえに、模倣をすることが難しいと思ったのだ。
模倣することの意味というのは、型の習得であることを超えて、自分独自の型を構築していくことにあるだろう。自分独自の型を構築していくためには、完全なる模倣ではなく、模倣の最中に自分なりの解釈や工夫を加えていくことが必要となる。
ここ最近作曲実践をしながら感じているのは、自分なりの解釈と工夫を加えて模倣することの困難さである。例えばバッハの曲に範を求めた時、それを見よう見まねで自分なりの解釈と工夫を加えながら曲を作ってみると、まったく異質の曲が生まれてくる。
しかもそれは、極度に次元の落ちたものだと言わざるをえないだろう。ここに作曲における模倣の難しさが潜んでいるように思える。
どの芸術領域においても模倣しながら型を習得していくことがいかに困難かということを知り、巧みに模倣していくことの道を模索していく必要があると改めて知る。フローニンゲン:2018/2/13(火)07:39
No.755: Revival of Interest in the Science of Learning
I feel that my interest in the science of learning revived again.
While digesting what I learned in the class today, I was sensing intellectual exultation.
Scrutinizing the process and mechanism of learning provides me with exuberant feelings. Groningen, 16:12, Wednesday, 2/14/2018