起床してから二時間以上が経ったが、相変わらずあたりは真っ暗である。よくよく考えてみれば、今日は五時に起床していたから、今のこの時間帯が闇に包まれていたとしても一向におかしくはない。
今日は日曜日であるため、その静寂さが一層強さを増す。そうした中にあって、小鳥の声がいつもよりひときわ鮮明に聞こえてくるのは喜ばしいことだろう。
どこからか、ピヨピヨ、チヨチヨと鳴く小鳥の声が聞こえてくる。小鳥の声に耳を澄ませ、心が洗われるような気持ちになっていると、昨日スーパーのレジで私の前に立っていた客が手に持つ花の良い香りが想起された。
花々について造詣が深くないのが残念で仕方ないが、その名前のわからない花が持つ豊かな香りを忘れることはできない。ときどき私は、街を歩いている時に、花屋の前で足を止めることがある。
特に花を買うわけでもないのだが、ついつい足を止めてその花々の美しさに見入ってしまい、そこに漂っている香りの世界の中に入ってしまう。そのような体験を花屋の前でするたびに、花を生けてみたり、植物を育ててみたいという気持ちになる。
いつか今後もう少し落ち着いて定住するような生活が始まったら、植物を育ててみたいと思う。 昨夜の就寝前に、「この世界でかつて最も絵画作品を描き続けた人間は誰だろうか?」という問いが浮かんだ。それに対する私の回答は、「葛飾北斎ではないだろか」というものだった。
昨年の年末に、母方の叔父と共にすみだ北斎美術館に訪れた時の記憶が蘇ってきた。北斎は寝ても覚めても、そして死の直前まで絵画を描き続けた人間であった。
そのことに大きな感銘を受けていた自分をふと思い出した。そこから、一人の人間がなすライフワークについて考えを巡らせていた。
自分にとってのライフワークとは一体何なのか。それについては、先日突如として湧き上がったことが回答のような気がしている。
私のライフワークは全くもって何の変哲も無い。メモを残すこと。
それがライフワークだった。文章として、曲としてメモを残すことがどうやら自分のライフワークらしい。
何に関するメモだろうか。それは自分の人生を通じて得られた、人間存在に関するメモのようだ。
当然ながら、私は今後も、学術研究を行い、研究論文を執筆したり、書籍を書いたり、日本企業との協働という仕事を行なっていくだろう。しかし、それらを包摂するものとして存在している自分のライフワークは、「メモを書き残し続ける」という何の変哲も無いものだった。
ただし、北斎が行ったのと同様に、メモを残すことは寝ても覚めても、そして死の直前まで継続していくべきものであり、それを行おうとする内在的な衝動が自分の中に息づいているのがわかる。
この内在的な衝動が示唆するように、私という一人の人間にとっては、自らの固有の人生を通じて得られた体験をもとに、人間存在について文章や曲としてメモを書き残し続けることがライフワークのようなのだ。
「そんなライフワークがあってもいい」と私は私に対して述べていた。フローニンゲン:2018/1/28(日)07:54