作曲実践に取り組めば取り組むほど、曲を作ることの奥深さを知る。確かに、曲を作るプロセスには意識的な箇所と無意識的な箇所の双方が伴う。
作曲実践の経験を積めば積むほどに、意識的に生み出されるものと無意識的に生み出されるものの両方の質が高まっていくという現象は大変興味深いことではないだろうか。熟慮のある実践を継続させていけばいくほどに、意識的・無意識的な創造力の双方が向上していくというのは、私にとっては大変面白い現象である。 曲を作っていると、作曲者当人の意識を超えた形で様々なものが形となって出てくることがある。これは作曲のみならず、絵画や表現を司る芸術行為全般に見られることだろう。
無意識の世界から生み出された形は、私の意識を超えており、時にそれが生み出される瞬間と生み出された形に対して驚きの感情を覚える。それがなぜそのような形で生み出されたのか、説明出来る箇所も多分にありながらも、全く説明の及ばない箇所もある。
説明可能性と説明不可能生が混在しているのが創造プロセスの本質なのかもしれない。曲を作る際にそうしたプロセスを体験し、私は曲を解説する文章を執筆するときにもそのようなことを体験する。
過去の偉大な作曲家の多くは、タイトルさえつけない者も多く、また言葉を用いてその作品について解説することなどほとんどない。だが私は、おそらく彼らとは作曲をする意図と意義が異なるために、あえて毎回タイトルを付け、その曲に関する背景や解説を加えることにしている。
時に驚くのは、その曲を解説しようと思っても全く解説できないような曲があることである。そうした曲に対しては、生み出されたその曲を聴くことによって喚起される思考や感覚を作品解説として載せることにしている。
ここでも興味深いのは、当人の意識を超えた形で生み出された作品を改めて聴くと、自分の意図していなかったような言葉が生み出されることである。意識を超越したものは意識を超越したものを呼び込む。
そのような関係性でもあるのではないか、と思わされる。意識を超越した曲が意識を超越した新たな言葉を生み出すことや、その逆も起こりうる。
人間の創造プロセスというのは大変興味深い。昨年、私はタレントディベロップメントと創造性の発達に関するプログラムに所属していたのであるが、その時には気づかなかったことが少しずつ明らかになってくる。
そのプログラムに所属して人間の創造性の発達に関する探究を進めていたことが、今ようやく形になり始めたのかもしれない。人が形を生み出すこと、形がこの世に創出されることはなんと奥深い現象なのだろうか。フローニンゲン:2018/1/28(日)06:24
No.699: From Here
I suppose that everybody often thinks: “I’ll start from here.”
Yes, I’ll also begin from here. Groningen, 08:08, Tuesday, 1/30/2018