先ほど書き留めた日記の中で、個の生命を深めようとする内在的な力について言及していたように思う。それはどこか、昨日の私と今日の私のアイデンティティを繋ぐ目には見えない力のように内在的なものだ。
よくよく考えてみると、昨日の私と今日の私のアイデンティティが連続性を持っているということは驚くに値することだと思うのだ。しかし、いつからか私は、こうした連続性の向こう側を見ようとするような試みに着手し始めているように思う。
その背景には、昨日の私と今日の私を繋ごうとする保存的な力によって失われてしまった自己の側面があるのではないか、と思うようになったからだ。自己を保存しようとすることによって、何か失われてしまったものがあるのではないだろうか?
そのような問いを出発点とし、その失われたものが何なのかを発見しようとする試みにいつからか着手し始めていた。 いつも目覚めた時、「今日も自分が始まった」という言葉が口から自然と漏れそうになる。もう少し丁寧な言葉で言えば、「今日も昨日と同じかつ新たな自分が始まった」という言葉が起床時の頭に浮かぶ。
連続的でありながらも、何か昨日と違う自己の側面が小さく芽生えているという確かな感覚。それを毎朝感じるのだ。
それは自己のアイデンティティを保存しようとする内在的な力と同様に、保存しながら深めようとする内在的な力が私たちに備わっていることの表れかもしれない。それらの力の存在を毎朝直視させられるのが、私の一日の始まりの特徴だ。 無風。有音。空を飛ぶ鳥。今の私を取り巻く外側の世界を描写するとそのようになるだろうか。
体験を経験に昇華させ、経験から自らの言葉を見出した人にしか生み出せない言葉があるということを、本日の中竹さんとの対談から改めて感じたように思う。新たな気づきや発見というのは、本当に純粋に新しいものなのだろうか。
どうも私には、新たな気づきや発見というのは、実はすでに自己の深層部分にあるのではないかという思いがしている。気づきや発見というものが仮に見出されるものであるならば、それはどこに見出すことができるだろうか。
仮に外発的な刺激があったとしても、気づきや発見が生まれる場所は自分の内側だろう。そのようなことを考えてみると、自分の気づきや発見が自己の内側から芽生える前提条件に、実はそもそもそうした気づきや発見は自己の深層部分に最初からあったと考えることはできないだろうか。
確かに、気づきや発見は見出していくものなのだが、同時にそれはどこか、自分の本来持っているものを思い出すこと、あるいは回帰していくことに近しい営みなのではないだろうか。 有風。無音。鳥のいない空。世界がまた姿を変えた。
変化の最中にあって、変わらないもの。変化を生み出す内在的な力と変化を超えたところにある不変的なものは、常にこの瞬間に存在しているのだということを、今目の前にしている世界が告げている。フローニンゲン:2018/1/25(木)11:30
No.688: Refreshing My Memories
Since two days ago, I’ve read again a fundamental book about music composition.
This second reading refreshes my memories about various techniques of music composition.
In particular, I noticed that I lost my memories about diverse ways to develop a melody.
Since I could recall the various types of techniques, I’ll immediately apply a couple of them to music that I’ll create tonight.
Practice is foremost important to build a robust foundation of my composition skills. Groningen, 17:57, Thursday, 1/25/2018