先ほど、リクルートマネジメントソリューションズさんの「オトマナプロジェクト」という大人の学び方に関するプロジェクトの一環として、早稲田大学ラグビー部の元監督中竹竜二さんと対談をさせていただいた。
一時間半に及ぶ対談であったが、その時間はあっという間に過ぎていった。私自身、人間発達を研究する中で、スポーツの世界に対する関心はいつも非常に強い。
今、企業人の発達に関する研究と協同を進めていくことに並行して、学術的な研究の焦点は芸術と人間発達に向かっていることを以前の日記で書き留めた。一方で、私は依然としてスポーツと人間発達の研究や協同プロジェクトにも関与したいと思っている。
本日、中竹さんからの示唆に溢れる数多くのお話を聞き、スポーツ界との関わりを持つことができたらと幸いであるという思いがより一層強くなる。今日の対談の中で中竹さんが共有してくださったお話には大変感銘を受けるものが多く、それらについては私自身の中でもう一度反芻し直す必要があるだろう。
対談後、しばらく私は書斎の窓の外をぼんやりと眺めていた。相変わらず鬱蒼とした空が広がっているのだが、どうしたものだろうか。
そうした鬱蒼とした空を眺めながら、また一つこれまでの自分には気づかなかった事柄が突如として顔を覗かせた。何かを学ぼうとする意思、さらには何かを深めていこうとする意思の向こう側にある意思と、その意思のさらに先にあるもはや意思とは言えないような力の存在に気づいた。
これはもしかすると、以前から自分が考えていたことの確認だと言えるかもしれない。何かを学ぼうとする意思、そして何かを深めていこうとする意思の向こう側にある意思とは、一人の人間として与えられた固有の生を深めようとする内在的な意思に他ならない。
私は何かを学びたいという思いや何かを探求したいという思いが常にあるが、それらの思いが自分を突き動かしているわけではないことをいつからか知っていた。ではそれが何なのかについては、随分と長い間悶々と考えさせられるような日々を過ごしていた。
欧州での生活を始めてある日ふと、それが自らの有限な生を極限まで深めていこうとする本能的な意思だということに気づいたのである。それはまさに内在的なものであって、私たちが意識するとしないとにかかわらず四六時中私たちの内側で働き続けている。
もしかすると、それはもはや生命力と言えるようなものだと言い換えることができるかもしれない。自分を日々突き動かしているのは、意識的な自己が感じるような学びに伴う欲求のようなものではなく、それすらも超えた生命力のようなものなのではないかと思う。
そしてこうした生命力の根源、あるいはそれを超越したものとして、極限まで深められた個の生から人間存在に共通の普遍的な生に向かっていく力が存在しているように思えて仕方ない。
つまり、日々の私を突き動かしているのは、一つの個としての生命を深めようとする内在的な力であり、その力を超えて、人間存在の普遍的な生に向かっていく力、あるいは普遍的な生命を深めようとする内在的な力だと言えるように思える。
もしかするとこうした力は、発達心理学者のスザンヌ・クックグロイターが提唱する「univesal」な段階に固有の特性なのかもしれない。 今日は中竹さんとの貴重な対談があったということを書き留めておかなければならない。今日が確かに今日存在していたのだと書き留めておかなければならない。
でなければ、本当に私が今日この世界にいたということがわからなくなってしまうだろう。自己の存在が深まるというのは、自己の消滅の危機と隣り合わせにあるような気がしている。
自己の存在がますます透明になりつつある日々の中で、決して消滅することのない自己の永遠性を見出す必要があるだろう。自己が永遠に近づくことと自己が消滅することの間を今の私は歩いているような気がする。フローニンゲン:2018/1/25(木)11:30
No.687: Meeting for an Internship on MOOCs
I had a meeting with my future supervisors for a research internship on MOOCs.
We clarified my role and responsibility as an intern.
By virtue of today’s meeting, I convince myself that I can make a good start for this internship.
I look forward to the first day to work. Groningen, 17:19, Thursday, 1/25/2018