今日は昼食後に、「応用研究手法」のコースの最後のクラスがあった。今日のクラスでは、「システマティックレビューの執筆方法」でも取り上げられたメタアナリシスの意義について再度確認することからクラスが始まった。
私たちはニュースにせよ新聞にせよ、ある事象に潜む因果関係に関する説明を見聞きすることが頻繁にあると思う。例えば、「経済不況が起こっている原因は〜である」という言葉であったり、「〜は血糖値を下げることに効果的な食べ物である」等々である。
因果関係を説明するこのような言葉を見聞きした時に私たちが気をつけなければならないのは、当然ながらその因果関係は実証的に明らかになっているのか否かだと思う。しかし、仮に実証的にある因果関係が説明されたからと言って、私たちはすぐさまその因果関係の正しさを鵜呑みにすることはできない。
なぜなら、研究デザインの質の問題であったり、研究手法に潜む内在的な限界など、その因果関係が本当に正しいかどうかは一つの研究結果をもってしてすぐさま立証できるものではないからである。
往々にして社会科学の研究、特に私がいる心理学や教育学の実証研究は局所的なものである場合がほとんどであり、研究対象者や介入手法の個別性がかなり高いことが多い。そうした事情もあり、一つの局所的な研究成果から安易な一般化をすることには危険性が伴う。
端的に述べると、私たちはよく一つの研究成果をもってして、ある介入手法の効果を鵜呑みにしてしまいがちだが、実際にはそれほど単純ではないのである。これは科学者ではない一般の人たちのみが陥りやすいことではなく、科学者でも頻繁に陥ることである。
例えば、ある論文を執筆する際に、「この論文ではAという教育手法は統計的に有意味な効果はないと述べており、またあの論文でもその研究手法は統計的に有意味な効果は見られなかったと述べている。さらに別の論文を読んでみると、やはりその教育手法には有意味な効果は得られなかった」というような形で、ある教育手法の効果に関する物語を構成するような論文を見かける。
しかし、そうした論文の執筆者も結局のところは、上述のようにある個別個別の研究成果にのみ着目し、より包括的な視点でその教育手法について精査していないことが伺える。
そこで重要になってくるのは、個別個別の研究成果を単に列挙することではなく、体系的なアプローチでその教育手法に関する研究を網羅的に調査していくことである。この点がまさにメタアナリシスの貢献領域となる。
メタアナリシスを用いることによって、例えばある教育手法に関する研究を網羅的に調査し、数百や千にも及ぶ研究の成果に対して統計処理を行い、一つの包括的な結論を導き出していく。
このプロセスを経ることによって、単に偶然見つかった個別的な研究をいくつか眺めて結論を出すよりも、より信頼性と妥当性の高い結論を導き出すことが可能になる。
残念ながら、私の専門分野である成人発達の領域において、とりわけ構造的な発達に関する介入手法の効果測定については、そもそも個別的な実証研究が少なく、それが背景となって、メタアナリシスを行っている論文は皆無に等しいように思う。
構造的な発達を長期間にわたって調査することが難しいのは承知であり、構造的な発達を支援する手法が希少なことも知っているが、当該研究分野のさらなる発展と成人発達の支援を行う実務領域の発展を考えた場合に、そうした研究を積み重ねていくことは必要不可欠だと思われる。フローニンゲン:2018/1/24(水)16:43 No.684: Verbosity and Succinctness
When I’m writing in Japanese, it tends to be verbose. On the other hand, my English writing is inclined to be concise.
The difference is intriguing. Of course, one cogent reason might be the fact that my native language is not English but Japanese.
Yet, I think there are many other reasons underlying this phenomenon.
Anyway, I’ll continue to keep a concise journal in English.
Both verbosity and succinctness are the nature of my writings. Groningen, 08:32, Wednesday, 1/24/2018