穏やかな心の機微に合うような音楽をかけようと思い、すっと選んだのはグレン・グールドが演奏するブラームスのピアノ曲だった。
この曲は随分と昔に自分のパソコンにダウンロードされたものでありながら、これまであまり聞いたことがなかったように思う。直感的に選んだこの曲は、今の私の心の動きに完全に合致しているようだ。
昼食を済ませ、仮眠から目覚めた後に、福永武彦氏の『幼年』を読み終えた。この作品を読みながら、物語の内容はどこか自分にも当てはまることが多いのではないかとしきりに思っていた。
他者の中に自分を見出し、自分の中に他者を見出すような感覚が自分を包んでいた。この作品に対して何かを書きたいという心の疼きのようなものが芽生えているのだが、果たしてそれは何を書くことを望んでいるのかが定かではない。
この作品によって、私の意識の最奧が動かされたようなのだ。生きていく過程の中で、私たちは日々、諸々の記憶を無意識の大海に蓄積させていく。
ある記憶は無意識の大海の表層で幾日か漂い、ある記憶は直ちに無意識の深層に落ちていく。この作品は、どこか私の無意識の深層に長いこと堆積されていた種々の記憶を掘り起こすような働きがあったような気がする。
いや、それは掘り起こすというよりもむしろ、深海魚がそっと海底から顔を出し、深海を泳ぐ時に沸き立つ海底の砂埃のような類いの感覚である。海底の砂埃として舞う諸々の記憶が今、様々な形で交わり、結びつき、自分の記憶の世界をまた少し変容させる方向に動いている。 この一年以内に何度か夢の中で仮想通貨が現れることがあったことは、すでに過去の日記に書き留めている。仮想通貨を取り巻く社会的な現象と私の無意識が繋がっていることはどのように解釈できるのか、それに対する関心は絶えない。
自分の無意識の所有権は私だけにあるのか否か。最近思うのは、その所有権は私個人に属するものではなく、間違いなくこの世界に共有されているということだ。
そうでなければ、あれほどまでに仮想通貨の個別具体的な出来事と私の無意識が結びつくはずはないのだ。 この世界のどこでいかように生活を営もうとも、この世界と私は切っても切れない関係にあることを知る。たとえ日本にいなくても、日本を取り巻く集合意識は常に私の中にあり続けるだろう。
さらには、この世界で生きている限り、世界を取り巻く集合意識が自分に影響を与え続けることに疑いがなくなった。それとの関係で自らの仕事を捉える必要があるだろう。
そう捉えなければならない。自分が今この瞬間に言葉を生み出すことも、曲を生み出すことも、自分の意識とは別の次元にある集合的な意識が影響を与えていることに自覚的にならなければならない。
一つの言葉、一つの作品、一つ一つの仕事は、属人的かつ属人的ではないというのはそういうことなのだ。個人の仕事は個人から生み出されるという単純なものではなく、個人と集合から生み出され、それが再び個人と集合に還っていくような性質を持つものなのだ。
この人生を歩く過程の中で、自己が自己に還っていくというのは、さらに突き詰めて言えば、自己が自己を超えた集合的なものに還ってくということを意味するのかもしれない。きっとそれが普遍性に至る道なのだろう。 夕暮れ前の太陽が優しい光を地上に届けている。日々このように生きていけば、私はあの太陽のところまで行けるだろうか。
太陽への帰還に向けて、今日もまた残された時間の流れの中で生き続けたいと思う。フローニンゲン:2018/1/21(日)15:30
No.673: The Itinerancy of Our Spirit
We might be able to regard the intrinsic nature of our soul as “itinerancy.”
Even though our soul looks like residing in one place, it would be always in motion.
Where does our soul come from and where does it go?
My soul is always peripatetic in this world. Groningen, 08:43, Sunday, 1/21/2018