今日は最高気温が5度、最低気温が1度と、フローニンゲンにしてはそれほど寒い日ではないのに、どこか寒さを感じさせる。
それはこの鬱蒼とした雨雲のせいかもしれないし、それ以上に、今激しく降り注いでいる雨がそのように感じさせるのかもしれない。窓越しから通りを眺めてみると、道行く多くの車の屋根には雪がうっすらと積もっている。
この激しい雨によって、通りの雪はだいぶ溶けているが、それでも少しばかり雪がまだ残っている。これらの風景が総合的に得体の知れない寒さを自分に感じさせているのかもしれない。
予報では、今日は一日中雨であり、すでに四日分の食料を一昨日に購入しているので、今日は外に出る必要がない。これから終日雨を見ながら仕事に取り組むことになるだろう。 昨夜は少しばかり、言葉について考えていた。考えていたと言ってもそれほど真剣にその主題を扱っていたわけではなく、頭の中でぼんやりとそれについて思いを馳せていたにすぎない。
作曲をすればするほどに、言葉というものについての関心が高まり、自分自身の言葉の感覚や感性も少しずつ変化しているように思える。昨日焦点を当てていたのは、言葉を用いて思考すること、言葉を用いて生きることの価値についてであった。
言葉を用いている自分の内側に意識を向けると、言葉を活用する際にはそれに対応する身体感覚が存在することがわかる。言葉を用いるということは、単なる思考運動ではなく、まさに身体運動であるということがここからもわかる。
自らの言葉と身体を動員しながら思考を進めていくと、いつも新たな差異がそこに生まれることに気づく。あるいは、何か古い皮が剥け、新しい皮がそこに姿を現わすような感覚があるのだ。
それは何だろうかと考えを巡らせてみると、一つには「意味の皮が剥ける」ということが起こっているようなのだ。一つの現象に内包されている意味は無限の階層性を持っており、どうやら言葉を用いて対象と真摯に向き合うと、必ず古い皮がめくれ、新しい意味がそこに顔をのぞかせるようなのだ。
ここで興味深いのは、新しい意味というのは、何か啓示的な発見に似たような解放感のあるものではなく、往々にして新たな謎である。あるいは、それは新たな問いと言ってもいいかもしれない。
つまり、意味の皮が剥けた後に生まれてくる新たな意味は、何かの解決を示すものでは決してなく、確かにそれは既存の問いを少なからず解決してくれるものなのだが、結局また新しい問いを私たちに投げかけるようなものなのだ。
私は、毎日こうした意味の皮が剥ける経験をしているように思う。それはすなわち、私は毎日新たな謎に向かって生を一歩前に進めていることを示唆している。無限に続く謎、無限に続く問いの中で私は今を生きているようなのだ。
そうしたことが明瞭に知覚され始めたのは、やはり自分の言葉で考えるということ、しかもそれを文章の形で記録し続けているということが大きいかもしれない。
毎日、日記として日々の取り留めもない思考と感覚を書き留めているのは、結局のところ、永遠に創出される謎の中を自覚的に生きようとする意思によるところが大きいだろう。そこからさらに、「ではなぜ私は無限に続く問いの中を自覚的に生きようとするのか?」ということを考えていた。
自分の身体の奥深くにそのような問いを投げかけてみると、返ってきたのはこれまでの回答と似ていながらにして、若干差異を含んだような回答だった。言葉と身体を総動員して永遠に続く謎の中を自覚的に生きようとするのは、それがやはり自己の存在を深めることにつながるからなのだろう。
自己の存在の深まりというのは、結局のところ、有限なこの一回限りの生の深まりを指す。昨夜、就寝に向けて洗面台に立っている時、「では、なぜ私は生を深める方向に駆り立てられているのか?」という問いが新たに立った。
その問いに対しては言葉を当てることをせず、私はそのまま寝室に向かった。フローニンゲン:2018/1/18(木)08:55
【追記】
「永遠の謎の中で生きる」と記述する際に、実はその前に「永遠の謎の上を生きる」という言葉の方がふさわしいように思えた。考えあぐねた結果、「中で」という表現を用いたが、「上を」という言葉にもどこか捨てがたい身体感覚が伴っている。
私たちは謎の中を生きるのか、謎の上を生きるのか。自分は謎の中を生きているのか、謎の上を生きているのか。
それはまだはっきりしない。だが、私の中には、謎の上に立つというところにまで到達しておらず、人生を取り巻く謎に対してある種の敬意があったことは確かであり、それが「上を」という表現を用いることをためらわせた。
まだ私は永遠に生み出される謎を超越しておらず、永遠の外に立つ形で永遠として生きることはできない。そうしたことから、「永遠の謎の中で生きる」という表現を選ぶことにしたのだと思う。2018/1/18(木)09:01
No.658: Multilevel Analysis
I learned multilevel analysis in the advanced research methods course.
The professor’s explanations were crystal clear, which helped me grasp the gist of the method.
It may be needless to mention that multilevel analysis is quintessential for educational and sociological research.
One of the most interesting characteristics of the method for me was that it could deal with macro and micro levels simultaneously and investigate their interactions without aggregating data and without violating the independency of data.
Although I’m not so certain of whether I will use multilevel analysis in my research, the knowledge I obtained from today’s lecture would be beneficial to wisely read articles that utilize the method. Groningen, 18:04, Wednesday, 1/17/2018