「あぁ、今日という一日もまた終わりに近づいている」 自然とそのような言葉が私の口から漏れた。
夕方の六時を迎える今は、もう辺りが闇に包まれている。辺りが闇にすっぽりと包まれているのと同じように、私たちの一日も何かにすっぽりと包まれているのではないかと思う。
だからこそ、一日が過ぎ去るのが早く感じるのだ。私たちの一日一日は何かに包まれているに違いない。
だが、その何かとは何であろうか。それを明示的に指摘することはしない。全ての人はそれが何かを知っているはずだからだ。 本日受け取ったハワード・ガードナーの書籍のページを何気なしにめくってみると。どうやらこれのようなのだ。芸術と人間発達。
もはや私は自らに何も語る必要がないかのように、その探究に向けて歩き出している。いや、呼吸と同じぐらいにそれを近くに感じながら日々を生きている。
芸術の領域の中でもとりわけ音楽と人間発達に関する関心は日増しに募る一方だ。子供も成人も含めた音楽教育と人間発達。
私はその探究に向けて今日もまた小さな一歩を前に進めていたように思える。その探究に向けて、自分の内側は情熱でほとばしっているというよりもむしろ、全く逆の様相を呈している。
今目の前に広がっている闇のように静かなのだ。それでいて、どこまでもその奥へ奥へと入っていけるかのような無限の奥行きを持っている。 人は人生を生きていく中で、「これだ」というものと幸運にも出会うことがある。私もたびたびそうしたものと出会う幸運に恵まれた。
その幸運に運ばれるようにして私は会社を辞め、米国へ留学しに行った。それは今からもう、かれこれ七年前の話である。
それ以降の人生においても、私は幾度となく自分の人生の舵を大きく切るような幸運と巡り合ってきた。教育へ関心を持ったこと、作曲を始めたこと、そして今、芸術と人間発達を探究していくという意思が芽生えたのは、まさにそうした幸運が運んできてくれたものだった。 そこでふと、「私は幸運と出会ったわけでも、幸運を得たわけでもなく、幸運の通り道になったのではないか」という考えが芽生えた。幸運の通り道。
どうやらこの世界にはそうした道が存在しているようなのだ。この考えは、対象を対象として切り離すことなく自己と完全に同一のものだとみなす最近の私の内的感覚と合致している。
そうなのだ、ここでもまた合致している感覚があるのだ。合致する感覚、合点が行くという感覚の本質そのものに自分がなりつつあるのを見て取ることができる。
対象との究極的な合一化を果たす時、そこにはもはや対象など最初から存在しなかったことがわかる。あるのは世界のみ。世界のみなのだ。
私は仕事を「持っていない」ということが、究極的な仕事への端緒であることを知る。確かに私は今、大学で科学的な研究を行い、日本企業との協働プロジェクトなどの仕事をしている。
それに加え、日々の日記や作曲すらも仕事の一部だと言えるかもしれない。しかしながら、それらの仕事を所有しているという感覚は一切なく、自己がそれらの仕事の通り道になっているという感覚だけが自分の内にある。
おそらくそういうことだったのだろう。一人の人間に付与された使命的な仕事というのは、こういうことを言うのだろう。
それらの仕事の通り道に自分がなれたということ、そしてそれらの通り道として日々を生き始めたということは、どれほど有り難いことだろうか。
目の前の闇が闇ではなく、光を包むさらに大きな光のように見える。フローニンゲン:2018/1/14(日)18:12 No.645: Whisper of a Little Bird
I can hear whispers of little birds every morning outside the window.
Listening to the mellifluous sounds, I’m always induced to enter a state of meditative consciousness.
We might be able to say that little birds are Buddhas, and that so we are if we awake by the whisper of a little bird for the truth of this reality. Groningen, 07:44, Sunday, 1/14/2018