大阪に住んでいた数年前のことを先ほど思い出していた。大阪に住んでいたのはもう八年から九年ほど前のことになる。
その年数を考えてみると、大阪に住んでいたのはそんなに前の出来事だったのかと不思議に思う。ちょうど昨日は、ニューヨークの郊外に住んでいた五年前のことを思い出していた。
ニューヨークの郊外には整った住宅環境がたくさんあるが、私が住んでいた場所はそれほど優れた居住環境ではなかった。
ニューヨークに移る前に住んでいたカリフォルニアのベイエリアにも様々な居住環境があるが、私が住んでいた場所は極めて治安も良く、見事に整備されていた住宅地の中に家があったため、最初ニューヨークのその場所で生活を始めた際には多少なりとも違和感があった。
私が住んでいた住宅エリアの隣のエリアは、アフリカ系の人たちが多く住んでいる場所だった。当然ベイエリアには様々な人種の人たちがいるし、特定の人種が集まっている生活区があるのは確かだ。
しかし、実際に私がそのような場所に住んだことはなく、同じ人種の人たちが、しかもアフリカ系米国人がこれほどまでに集まって生活をしている場所と目と鼻の先で生活を営むことに違和感があった。その居住エリアを歩いて通らざるをえない時が何度かあり、最初のうちはやはり大きな違和感があったことを認めざるをえない。
もちろんそれはそこで生活を営んでいる人たちに対してでもあったが、一番は自分の異質性に対するものだった。そのエリアには日本人はおろかアジア系の人は誰一人として住んでいないようだった。
そこはアフリカ系の人たちが住むためのエリアとなっており、日本人がその辺りを歩くことはとても奇異な光景に見えた。ニューヨークに住んでいたわずか半年間の期間にそうした違和感は徐々に薄れていったが、最初に感じた何とも言えない粘着質のある重たい感覚は、今も自分の腹部辺りに感じることができる。
あの感覚の本当の正体は何だったのであろうか。それはきっと、自己と他者の問題と関係しているだろうし、存在が持つ究極的な孤独さと独自性の問題と関係しているだろう。
昨日は一つ大きな発見をした。それは、テレビの画面の映像の切り替え速度は極めて早いということだ。
夕食前に食卓から外の景色を眺めていると、通りを挟んで向こう側のレンガ造りの家々の一室の中に、ちらちらと変化する閃光のようなものを見つけた。それはどうやらテレビの光だった。
私はその時初めて、テレビの一コマ一コマがあれほどまでに非連続的に変化しているのだと知った。おそらくテレビを見ている当人は、その慌ただしい非連続の光に気付くことなく、テレビに映る光景が連続的に知覚されているに違いない。
言葉は悪いが、やはりこのような刺激に無自覚にさらされ続けているのは家畜同然なのではないかと思う。思考を停止させるような刺激を与えられ続けているというのは、家畜の調教のように思えて仕方なかった。
なぜそのような性質を持つテレビを見る人がいるのかは、はなはだ疑問に思うことがあるが、それは現代人が家畜化されつつあることを暗に示している。テレビのみならず、私たちの身の回りには過剰な刺激が溢れている。
とりわけ昨今は、情報刺激が多すぎるように思える。それらの具体例についてはあえて列挙しない。
それらの情報刺激に無自覚に晒され続けている限り、人間らしい生など営みようがないように思えるのは私だけだろうか。フローニンゲン:2018/1/13(土)07:07
No.639: A New Habit
As well as my penchant for paintings, I have a strong affection for exquisite music scores.
Beautiful music scores fulfill my soul eyes.
Well, I’ll make a new habit of seeing aesthetic music scores before going to bed. Groningen, 20:38, Friday, 1/12/2018