早朝、ふと二年前のこの時期について思い返していた。二年前の一年間は日本に滞在しており、ちょうどフローニンゲン大学に訪問し、サスキア・クネン教授とルート・ハータイ教授との面会に向けて日本を出発する頃だったように思う。
二年前の今頃は、『なぜ部下とうまくいかないのか』の原稿を執筆し終え、それを寝かせているような時期だった。あれから二年の月日が流れたということがどうも信じられない。
なぜなら、当時の記憶が昨日のことのように鮮明に、この瞬間の私の脳裏に焼き付いているからである。月日というものは一体何なのだろうか、時間とは何なのだろうか、ということを考えざるをえない。
昨年の今頃は一昨年と同様に、『能力の成長』の原稿を書き上げ、それを寝かせている時期だった。あれから一年が経ったのだと思うと、少しばかり感慨深い。
一年後の自分は今日をそのように思い返し、二年後の自分は今日をそのように思い返すのだろうか。 今年はこれまでの二年間と違い、自分の書籍の原稿を書き上げ、それを寝かせているわけではない。しかし、現在共著として第三弾の書籍の出版を目指して企画を前に進めている。
今回の書籍も成人発達に関するものだが、原稿の大部分は共著者の方が執筆し、私は各章の終りに随所随所解説文を加える計画である。既に文章の構成は出来上がり、ちょうど先日、共著者の方から「はじめに」と「第一章」の文章を送っていただいた。
今回の書籍がいつ頃出版されるのかはまだ未定だが、なんとか今年の夏か秋までには出版できたらと思う。 今日はこれからベートーヴェンとデューイの書籍を読む前に、少しばかり作曲実践を行いたい。一昨日の成田からヘルシンキのフライトの最中、ふと、自然言語を用いた文章でも音楽を奏でられるのではないか、という考えが脳裏をよぎった。
文章にもリズムがあり、メロディーがある。文字が喚起する思考や感情を活用すれば、ハーモニーすら文章に体現することができる。
さらには、転調だって可能である。そのような考えが芽生えた。
文章を用いて音楽を奏でるように、思考や感情、そしてイメージを喚起するような技術を高めていく。それは自分のためではなく、他人のためでもない。
技術そのもののためにそれを行う。そのようなことをフライトの最中に考えていた。
その考えの実現に向けて、音楽を奏でるような文章執筆方法についても模索と研鑽を忘れたくはない。フローニンゲン:2018/1/8(月)05:54
No.620: Visual and Auditory Beauty
This is my hypothesis, but the visual beauty of music scores might correlate with auditory aesthetic experience.
Music scores of great music look elegant as if they were actual beautiful paintings.
I’ll verify this hypothesis, experimenting on my works. Groningen, 15:35, Tuesday, 1/9/2018