今日は午前中より、昨日父に借りた書籍を読んでいた。まず読み進めていたのは、金田一春彦氏の『日本語』の上下巻である。
下巻は国語学に関心を持つ人でなければなかなか読み通すことが難しいと思われるが、上巻に関しては国語学の専門外の者にとっても得るものが多いだろう。上巻を読み進めながら、日本語、とりわけ漢字の持つ表意力について改めて立ち止まって考えることになった。
漢字の一文字一文字がイメージを想起させる特性を持っていることは誰しもが知っていることであろうが、改めてその性質は非常に奥深い。
欧州での日々の生活は、常に西洋語空間の中で営まれており、西洋語にはそうした表意力を感じることはほとんどなく、それとの比較から、漢字の固有性を再度実感している。 もう一つ、漢字の持つ特徴的な性質がある。それは造語力である。
もちろん、他の外国語にも造語力は備わっているだろうが、漢字は他の漢字との組み合わせによって新たな語を次々と生み出していくことが容易である。
私が漢字の持つ造語力に着目したのは、私自身の内面的成熟に応じて、現象を把握する際に出てくる言葉が既存のものではないことを度々目にしてきたからである。
無配慮かつ無秩序に新たな言葉を生み出していくことは無意味であろうが、自分の内的現象を表現する際に、既存の言葉では把捉しきれない状況に直面した場合には、どうしても新たな言葉を生み出さざるをえない。
というよりもむしろ、新たな言葉が自発的に生まれてくるのである。もしかすると、ここに存在と言葉の接点があるのかもしれない。
存在も言葉も自己生成的な特徴を持っており、存在が変容を経て新たなものになった場合には、言葉も変容し、新たな言葉が自然と生み出され得る。 存在と言葉の不可分性については随分と以前から考えていたような主題のように思えるが、今日再びこの主題と巡り合うことになった。
仮に存在を内面領域に属するものとし、言葉を外面領域に属するものだとしたら、やはり両者は相互依存関係にあり、お互いに影響を与え合いながら深まっていく。 母のピアノ練習の時間となり、どこかで聴いたことのある音色が流れてきた。母に聞くと、イタリアの作曲家ルイジ・ボッケリーニのメヌエットとのことであった。 存在、言葉、音楽。この世界の内面外面全現象。
どこか目的論的に響くかもしれないが、どうも私には、それら全ての現象がある場所に向かって深まっていくようにしか思えない。2017/12/26(火)17:34
No.578: Music and Consciousness
While walking on the beach, I suddenly realized that it was significant to grasp the nature of human consciousness because music emerges in our consciousness.
What kind of music can liberate us from the prison of our perception?
Furthermore, how can I compose such music?
Although I learned the nature of consciousness in my first master’s degree, I’ll study it again. 15:18, Monday, 1/1/2018