昨日、母が演奏するバッハの前奏曲第一番を近くで聴いた。とても見事な演奏だった。
また、ピアノの演奏技術が一年前よりも高度なものになっていることにも驚いた。毎日数時間でもいいので実践を続けていくことの意義を、母の演奏は私に教えてくれたように思う。
日本に一時帰国する数週間前に、バッハの前奏曲第九番を一日に数百回ほど異常なぐらいに繰り返し聴いている日があった。いつか母の演奏する第九番を聴く日が来ることを願う。 実家に戻ってくると、自分の仕事や探究は普段と比べて進まない。それはある意味嬉しいこともである。
なぜなら、自分の仕事や探究に従事するというよりもむしろ、家族と対話する時間を十分に持てているからである。今日は朝の四時に起床していたにもかかわらず、読書や作曲実践がそれほど進まなかったのは、日中に母と様々な話題について随分と話していたからである。
夜父が仕事から帰ってくると、家の中はまた賑やかになった。昨日は父に、埴谷雄高著『不合理ゆえに吾信ず』という書籍を借りた。
まさか父が埴谷氏の書籍を持っているとは思っておらず、これはとても嬉しいサプライズであった。というのも、この六年間の欧米生活の中で、日本のアマゾンから居住地に送ってもらった書籍は埴谷氏の『死霊』一冊のみであり、埴谷氏の思想には感銘を受けるものがあるからだ。
先ほどはまた新たに、国語学者の金田一春彦氏の『日本語』を父から借りた。そのお礼として私は、辻邦生先生の書籍を二冊ほど父に貸した。
瀬戸内海の波音が自室にまで優しく響き渡ってくる。耳を澄ませば澄ますほど、波の音は様々な表情を見せる。
寄せては返す波の音。それは私の知らない時にも常に鳴り続け、私が生まれる遥か太古から鳴り続ける永遠の音。 私は改めて、自分の家族の関係性について大きな感謝の念を抱く。この関係性そのものは、生の有限性ゆえに、いつか終わりを告げる日が必ずやってくる。
だがそれは、自分の言葉としてこの世界に生まれ出た瞬間に永遠のものとなる。そうではないだろうか。
今聞こえてくる、寄せては返す瀬戸内海の穏やかな波の音が永遠性を宿しているのも、魂の言葉としてそれが把捉されたからに他ならないのではないだろうか。魂の言葉は永遠を体現している。
瀬戸内海の波の音も、自分の家族の関係性も永遠であることがそれを真理として証明している。2017/12/24(日)21:37
No.576: “Ohs”
Oh, is my role to integrate both western and eastern philosophy in the form of music?
Oh, probably so.
Oh, is it possible for me like the person who has no music background?
Oh, that is why it is possible for me. 10:39, Monday, 1/1/2018