昨日から今朝にかけて頭痛がひどかったが、今は随分と落ち着いている。今この日記を東京から山口県に向かう新幹線の中で書いている。
今朝方、頭痛と相まって、激しい幻聴に襲われた。全身が巨大な音に包まれ、その音に私は怯えていた。
それは快音では決してなく、不快かつ恐怖を煽るような激しい音であり、それが全身を包み、私はその音に震え、怯えていた。今はもう幻聴は聞こえない。
東京で二日ほど過ごすことによって、私は一つ極めて重要なことに気づいた。なぜそれに今まで気づかなかったのかと思うぐらいに重要なことだ。
それは、私が「禅病」を患っているかもしれないということだった。今から七年前に日本を離れて以降、私は数々の超常的な経験をしてきた。
それは神秘体験と形容することもできるかもしれないが、私はこれまで一度も自分の体験に「見性体験」という言葉を当てたことはなかった。だが、私は昨日ハッとした。
この七年間経験してきたことの幾つかは、紛れもなく悟りの体験であり、見性体験と呼ばれるものだったのではないかということだ。東京に戻ってきてからも、自分が夢遊病者のような感覚に陥っていることがよくあることに気づく。
今朝もホテルで朝食を摂っている時、これは夢の中の世界なのかもしれないと思っていた。夢の世界の中に自分がいて、見知らぬ無数の人たちもそこで生を営んでいる。そんなことを呆然と考えていた。 見性後の残滓に囚われる我。以前、ある知人の方が、悟りの体験は悟りの体験によって超克されていかなければならない、というようなことを述べていたことを思い出す。
悟りの体験は、間違いなく私たちの認識の枠組みを変容させる。しかし、それはまた新たな認識の枠組みを構築することを意味している。
私は長らく、悟りの体験によって得られた認識の枠組みに固着していたのではないだろうか。見えなくてもいいものが見えることに対する強烈なまでの苦痛を長らく経験していた。
これは禅病を患った、もしくは「魔境」に私が入り込んでしまったと言えるかもしれない。 日本に戻ってくるたびに、私は辛くなる。今回の一時帰国も改めて、なんとも言えない辛さが自分の中にあった。
もうこの国に住むことはないのかもしれないという思いが頭をよぎる。だが、上記のような極めて個人的な問題が問題として認識されない形で溶解していくためには、いつかきっと母国で生活を営んでいかなければならないのだと思う。
母国を思う気持ちと母国で生きることの過酷さの折り合いをどのように付ければいいのだろうか。今の私にはもう何もわからない。2017/12/24(日)09:59
No.572: Active Practice
Thinking back to my recent music composition, I notice that it has lacked active practice.
Although I have reproduced some actual examples of music scores in a textbook, it has seemed passive.
From tomorrow, I have to engage in music composition more deeply.
The best way is creating actual music by myself with theoretical and aesthetic reflection. 21:09, Sunday, 12/31/2017