ゴッホの手紙を読み進めるのと全く同じことを過去の偉大な作曲家が残した手紙に対しても行いたいと思う。これまで折を見て、日記が自分に与える影響について書き留めていたように思う。
今でも私の中では、日記という表現形式は最も大きなものとして存在している。自らが毎日絶えず日記を書き綴る中で見えてきたことが持つ意味の大きさを、私はもはや無視することができない。
一方で、日記に合わせて手紙の持つ意味もまた大きいことに気づく。日記と手紙の最大の違いは、一人の受け手がいるか否かにあるように思う。つまり、手紙においては受取人が存在しており、手紙の差出人はその人物を想定しながら、対話をするかのように言葉を紡ぎ出していく。
手紙には、その性質上、一人称・二人称・三人称という人称言語の全てが内包されているように思う。ゴッホの手紙を通じて、人間が醸し出す究極的な暖かさを感じたのは、おそらく手紙という形式が全ての人称言語を包摂していることと関係しているかもしれない。
これから私は日記のみならず、手紙という表現形式にも関心の目を向けていきたいと思う。今手元には、ゴッホのみならず、作曲家で言えば、モーツァルト、シューベルト、ショパンが残した手紙の全集がある。
またグリーグの手紙に関しては、その一部が収められた書籍が手元にある。残念ながら、ベートーヴェンの手紙が収められた全集は、イギリスからオランダへの配達の途中で紛失してしまったようだ。
そのため、また後日注文し、ベートーヴェンの手紙の到着を待ちたい。
ここ数日、ショパンが残したあるワルツの分析をしているのだが、そのワルツが作曲された時期のショパンの手紙を読んでいくと違った発見があるだろう。そうすると、この曲が誕生した背景を理解することにつながり、それはこの曲が持つ文脈をより豊かなものにしてくれるだろう。
昨日はショパンの楽譜を分析しながら、「こんな発想は今の自分には全くない」という観点を数多く見つけた。楽譜を精緻に分析して初めて見えてくることがある一方で、その曲が作曲された時期の手紙を合わせて読むことで、さらに多様な観点が獲得され、作曲に関する深い理解が得られていくだろう。
自らの作曲理論を構築するために過去の偉大な作曲家の作品から学びを得る際に、楽譜から作曲の法則性を認知的に掴んでいくだけでは不十分であることに気づく。法則性の把握は認知的のみならず、身体的、あるいは存在的になされなければならない。
そうしたことを補助してくれるのが、手紙という存在なのかもしれない。2017/11/29(水)07:38
No.485: Composers’ Letters and Diaries
I will read some composers’ letters and diaries who inspire my soul.
I already have some books that contain their letters and diaries, but I have not read any of them.
Each of the books will definitely provide me with inspiration for music composition.
One soul affects another. 21:20, Wednesday, 12/6/2017