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1751. 理論やモデルの検証可能性と反証可能性について


先週から今週にかけて、大学は試験週間に入り、講義もなく、私は自宅の書斎で絶えず生活をしていた。

人と直接会って話す機会がほぼ皆無であり、身体的に音として聞こえる声を一切聞くことなく、論文や書籍を通じて聞こえてくる著者の内的な声と自分の内的な声だけを聞きながら多くの時間を過ごしていた。

一方、今日は午前中に、とある日本企業の方々とオンラインミーティングをした都合上、久しぶりに人と対話をすることになった。それが契機となり、何かが決壊したかのように、ミーティングの後から今にかけて独り言が途切れることはなかった。

ミーティングが終わったら、明後日に控えている最終試験に向けた準備をすぐにしようと思っていたのだが、自分が重要だと思っていることについて絶えず独り言をつぶやいている自分がいた。こうした独り言が淀みなく流れ出している時は、仕事など一切手につかない。

そのため、この独り言をある意味落ち着かせるために、昼食前にランニングに出かけた。昨夜の夜中に気温が0度になったためか、昼前も非常に肌寒く、もはや防寒着を着ながらランニングに出かける必要のある季節になったことを知る。

ランニングに出かけたのは、それが心身の調整を兼ねた毎週に必ず行う習慣であるということ以上に、自分の独り言を落ち着かせる目的もあった。ランニングに出かけてみると、最初はこの寒さについて考えていた。

徐々に身体が温まってくると、今度は自分の身体に意識を向けてみた。ここで私は、先ほどからの独り言が落ち着いたと思っていたのだが、その矢先に、先ほどとは全く関係のない話題に関する内的な独り言が姿を現し始めた。

それは、科学理論の検証可能性と反証可能性というテーマだった。このテーマ自体は古典的なものだと思うが、これまで自分の中で重要だと思って取り上げたことは一度もなかったように思う。

「科学理論」と言及したが、より狭義には、私たちが日々生活の中で活用している「理論モデル」あるいは「概念モデル」だと考えると分かりやすいだろう。

結局、自分が日々行っていることは、直感や感覚から生み出された仮説を元にした、ある意味、主観的な概念モデルを生み出すことであり、その概念モデルを自分の経験データや、先人の思想や理論などと照らし合わせながら検証していくことに他ならないのではないかと思う。

科学的な仕事をしている最中に、主観と客観の問題は、これもまた古典的かつ重要なものとして向き合うことがよくある。科学に関して、多くの人が誤解しがちなことは、科学というのは客観的なものであり、それゆえに信頼に足るものだと思っていることである。

確かに、科学は客観領域を主に司るものだが、仮説の出処や研究手法の選定とデータの評価に関して、主観性が一切混じらないかというとそうではなく、むしろ多分に主観的なものが混じっている。ただし、そうした主観性が、科学的な真理を毀損しないような仕組みと方法が体系立てられているのが科学の世界だと言えるだろう。

このような誤解について一度考えを巡らせた後に、再び、概念モデルの検証可能性と反証可能性について考えていた。多くの人は、ここでも一つの誤解をしているように思う。

科学的に打ち立てられた理論というのは、実はそれは完成物なのではなく、絶えず検証可能性と反証可能性を残したものなのだ。そうでないものは、科学的な理論と呼ぶことはできない。

検証可能性というのは、その理論の確からしさをまた別の人が検証することができるかどうか、というものである。具体的には、ある研究者が打ち立てた理論について、外部データを参照しながらその理論を検証することができるかどうか、というものである。

一方、反証可能性は、検証可能性とも密接につながっており、その理論に対して実験や観察を通じて反証する余地があるかどうか、というものである。科学的な理論は、少なくともこれら二つの特性を持っていなければならない。

検証しようがないもの、反証しようがないものは、まさに机上の空論であって、それは科学的な理論とは言えない。実は、これと同じことが、私たちが日々活用し、日々の実践の中で構築していく概念モデルについても言えるのだと思う。

先ほどの問題意識は、私たちは理論やモデルというものを過信しすぎていたり、神聖視しすぎているのではないか、というものだった。端的に述べれば、既存の理論やモデルを、実験や観察を通じて検証・反証しようとする姿勢が希薄なのではないか、ということである。

仮に厳密な実験や観察を行わないとしても、少なくとも、自分の感覚に基づいた経験データと照らし合わせてみる必要があるのではないだろうか——実はこれは極めて重要である。つまり、なぜ人は、既存の理論やモデルを盲目的に信奉しようとし、自らそれを検証・反証しようとする姿勢を持たず、それをさらに洗練させる理論やモデルを作ろうとしないのか、という点に問題意識を持っていたのである。

ランニングの最中、そして、ランニングの帰りに立ち寄った行きつけのインドネシアンレストランとチーズ屋においても、そのような問題意識が絶えず自分の中にあり、私は気づけば自宅の前にいた。2017/11/7(火)13:39

No.396: A New but Different Ordinary Life I came back to Groningen at night yesterday.

I slept very well last night, which recuperated my energy.

Although immersing myself in beautiful nature in the Hoge Veluwe National Park regained my energy, taking a bus and train to Groningen caused exhaustion a little bit.

I will start my ordinary life again and hope it to be something different from before in that it can be replete with the energy of nature and art. 07:34, Monday, 11/20/2017

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