top of page

1712. 創造と共有


今日は五時前の起床から夜の今に至るまで、密度の濃い時間が過ぎていった。このように日々を生きることができるのなら、他に望むことは何もない。

絶えず読み、絶えず書き、絶えず創る生活。夕方に、夕日に照らされた辺りを眺めながら、近い将来の自分の姿を思い描いていた。

様々な国で生活をしながら、時に旅をし、生活や旅の中で絶えず日記や音楽を作っていくような姿を想像していた。この世界のその場所でしか考えらえぬこと、感じられぬことを絶えず文章にし、絶えず曲として残していくような生き方。

そのようなことを希求するのは、私というよりも、私の奥底にある魂だ。夕方のそうした想像は、魂の呼び声がもたらしたものだろう。 先ほど夕食を摂りながら、哲学、科学、音楽に共通する意義について考えを巡らせていた。このようなことを決して考えようとしていたわけではなく、食卓の窓の外を眺めた瞬間に、そうした考えと出くわしただけなのだ。

結局、私がそれらの三つの領域に従事し続けている理由というのは、それら三つが、私たちの生活や人生そのものの質の向上に密接に関わっていることにある。

とりわけ、自分の生活や人生を考えてみた際に、それら三つの領域に従事することが、どれほど日々の生活や人生そのものを豊かにしてくれるかは計り知れない。

哲学、科学、音楽の存在意義は、まさにそれに尽きるのではないだろうか、ということを考えていた。哲学書を単なる知識の習得として読むことは、ほとんど意味をなさない。

科学研究の知見が詰まった論文を読む際にも同様のことが言えるだろう。音楽に関しても、真に音楽の恩恵を受けるためには、曲と真剣に向き合う必要があるだろう。

受動的な態度でそれらの三つの領域に接しても、生活や人生の質がそれほど豊かにならないことも、皮肉な共通点として挙げられる。もう少し、自分自身に引きつけて考えを進めていた。

哲学に関しては、哲学書を常に自分の関心事項に引きつけながら読むことは、実存的な課題を抱えながらも、そこからさらに一歩足を進めていくことや、内面世界の成熟に大きく寄与する。また、時に哲学者のたった一つの言葉が引き金となり、自分の認識世界がガラリと変わる経験をすることがある。

まさに、一つの言葉には、私たちの認識世界を一変させるような力があるのだ。科学研究に関しても、その探究の最中で得られる知見は、どれほど自らの発達や学習に寄与するか計り知れない。

科学研究の知見一つ一つも、哲学者の言葉一つ一つと同様に、自分の認識世界を変容させ、さらなる開拓を促進していく。音楽に関しては、もはや言うまでもないほどの大きな体験を積んでいる。

この世界は、科学的な記号、哲学的な言葉、そして音楽的な音で構成されていると言ってもいいような気持ちになることがある。とりわけ音楽は、自分が作曲を行うようになって初めて、自分の内側に深くその意義が流入するようになった。

哲学、科学、音楽が、いかに日々の自分の生活と人生そのものの質を豊かに、そして、深くしてくれていることだろう。 それら三つの領域を毎日探究する中で、最後に一つ、興味深いことに気づいた。それらは常に自分に創ることを要求しているということである。

それら三つの探究を、単なる消費者として受動的に行っていたのでは、生活や人生の質にそれほど影響を与えないのではないかと思う。また、仮に受動的な探究を行っていると、必ずその日のどこかで、心身ともに疲弊するから不思議である。

一日中、科学書や哲学書を単に読み、音楽を単に聴くだけでは、必ず脳も精神も疲弊を迎える。ところが、探究の過程の中で絶えず創造行為を行うと、そうした疲弊を感じることは全くと言っていいほどない。

ここから考えていたのは、それら三つの領域は、自分に対して、創造による共有を絶えず求めているのではないかということだ。あえて一般化をするならば、私たちの脳や精神は、創造行為に営むことをその本質とし、創造を通じて生まれた表現物を共有することを宿命づけられているのではないか、ということである。

創造に次ぐ創造は、この世界へ自己そのものと自己の表現物を共有することに他ならない。やはり私たちは、何かを創造し、それを共有することを通じて、自他の生活と人生の質の向上という営みに参画するように創造されたのではないかと思う。2017/10/29(日)19:48 No.357: 10 Years Ago and 10 Years Later I was thinking about how I composed my thoughts in language 10 years ago.

In particular, I could write a limited number of sentences in English. My vocabulary and syntactic systems were not robust, which generated such a limitation.

10 years have passed since then. I cannot help but think of my progress.

The meaning of the last 10 years is profound, and it always supports me in my daily life.

From here and now, where can I go 10 years later? I ponder over my language systems 10 years later.

The systems include natural language and music language.

The products and constructions of my writing and music would be transformed, compared with the present ones. 11:31, Monday, 11/6/2017

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page