日々の一呼吸の中に、情熱の味を確かに感じる。自分は情熱を持っておらず、自分は情熱に他ならないことを知ってから、しばらくの時間が経った。
自己の存在が情熱と完全に合致した時、情熱という言葉は熱情という言葉に変わった。読みに読み、書きに書き、作りに作る。
それ以外に求めることは何もなく、人生そのものがそれらになるまでそれらを続ける。読むこと、書くこと、作ることを妨げるものは、自分の生活の中から一切排除していく。
今後、それはより極端な形を取り、それは自然なものとなる。とにかく、読むこと、書くこと、作ることの中で日々の生活を営んで生きたいと思う。
今日の午前中も情熱の味の中で自らの仕事に従事していた。今日の午後からもそうなるだろう。 昨夜、就寝前に、作曲ではなく、「編曲」の難しさについて考えていた。先ほどの日記で書き留めていたように、バッハの平均律クラヴィーア曲集の48個の曲を辿りながら、自分の作曲技術を高めようとする試みに数日前から着手始めた。
バッハの曲に範を求めることが、これほどまでに難しいことなのだと痛感させられるような体験を昨日した。もしかすると、これはバッハのみならず、他の偉大な作曲家の作品に対しても同様に抱くものなのかもしれない。
編曲には、作曲と同様に、非常に高度な理論と技術が必要とされることに気づいたのである。編曲に必要となる理論は作曲のそれとあまり変わらないのかもしれない。
そして、もしかすると、技術的な面に関しても、大部分は重なるのかもしれない。しかし、編曲と作曲がそれぞれ別の名称で呼ばれる独自の領域であるがゆえに、やはり、それぞれに求められる技術は当然ながら変わってくるだろう。
昨日、バッハの曲を前にした時、その曲のどこからどのようにアレンジしていいかが皆目見当がつかなかったのだ。試しに、コード進行は維持したまま、音符の配列を少しばかり変えてみた。
すると当然ながら、曲の印象がガラリと変わった。また、コードトーンをさらに付け足してみると、曲の全体感がごちゃごちゃしたものになってしまった。
逆に、二つの根音のうち、一つを削除し、音符の数を減らしてみると、曲から力が失われてしまうように感じた。そこではたと気づかされたのは、やはりバッハは、この曲の中に固有の生命を生み出したということだた。
つまり、私が行っていたのは、バッハが産み出した固有の生命から新たな生命を生み出そうとしていたのではなく、バッハが曲に宿した生命を殺すような行為だったのだ。編曲の難しさはまさにここにあるように思えた。
すなわち、元の作曲者が曲の中に宿した生命を殺さずに、全く新しい生命として別の曲を誕生させることが、編曲の肝なのではないかということだ。少し調べてみると、主旋律に手を加えるようとする時には、それは「変奏」と呼ばれるらしい。
変奏においても、同様のことが肝になるように思える。すでに曲の中に息づいているものを殺さずに、それを新たな曲の中で全く違った形で息づかせるという作業は、なんと高度なことだろうか。それはどこか、生命移植からの再誕生を施す作業であるように思えて仕方ない。 最後にいくつか付け加えるならば、昨日の編曲作業から得られたことは、編曲過程の中で、バッハが意図していたであろうことを自分なりに考えることは、作曲の幅を広げることに有益だということだ。
それに付随して、楽譜の中の様々な演奏記号についても、逐一その意味を調べることによって、学習が進んだということを忘れることはできない。ただし、そうした学びがあったとしても、やはり自分の中では、一から自分の手で曲を作りたいという強い思いがあった。
学術研究においても、必ず集中的な模倣の時期があり、模倣からの創造という行為は、結局学者としてのキャリアの最後まで続くのだということを最近強く感じる。それと同じように、作曲に関しても、集中的な模倣の時期があり、そこから自分の曲を生み出していく時期に移り、以降も模範と独自の創造が続いていくのだろう。
今の私は、編曲や変奏の困難さに直面しており、そこにある喜びに気付けていない。そうした喜びに気づけるようになって初めて、模倣からの創造行為に最後の日まで従事することができるのだと思う。
もちろん今は模倣の時期なのだが、模倣の仕方については、編曲や変奏というよりも、楽譜から何かしらのヒントやインスピレーションを得ることにとどめ、自分なりの曲を作ることによって作曲技術を高めていこうと思う。2017/10/28(土)14:07 No.350: Beauty without Makeup I slept very well and started today’s work later than usual.
I composed music last night, applying new concepts and techniques.
One of the intriguing findings was that decorating the piece of music with various musical symbols changed the image of the work.
I do not know the technical term, but the decoration with multiple musical symbols altered not only the appearance but also the image of music.
I was wondering about the existence of pure beauty without any decorating symbols. If it exists, it is like beauty without makeup. 08:10, Friday, 11/3/2017