書くことは、既存の知識を再想起することを促し、同時に、新たな知識と体験を既存の知識と結びつけることを促す。そうした促しによって、知識と経験のネットワークが頑強なものになっていく。
結局、自分が毎日、様々な時間帯に文章を書き留めているのは、過去の自分との関連付けを起点にして、新たな自己に向かっていく支援を行っているにすぎない。人は必ず自分から出発する。
出発の起点は他者にない。常に自分の中にあるのだ。
それは、過去の自分が積み上げてきたものである。既存の知識と経験、そして自己そのもに参照する形で文章を絶えず書いていく。
こうした実践が、これまでの自分とこれからの自分を繋いでいく。そして、そうした架橋作業に従事しているのは、現在の自分であり、繋がれる者も実は現在の自己なのだ。
いずれにせよ、これまで自分が蓄積してきた知識と経験を参照しながら、新たな知識と体験を咀嚼していくことは重要な試みとして私の中にある。もしかすると、この試みが唯一、自分が前に進むための方法なのかもしれない。
自己言及的に進むということ。自己言及によって、自己産出を促していくこと。それを実現させる有力な一つの手段が、まさに書くことなのだ。
ここで述べている書くことというのは、主に文章を書くことだが、実際には自然言語による記述にとどまらない。昨日も実感していたが、曲を書く過程の中にも、紛れもなく、自己言及的かつ自己産出的な要素が含まれている。
曲を書く最中においても、これまでに習得してきた理論と技術を参照し、今の自分を参照することを余儀なくされる。まさに作曲は、過去の自分に触れることを通じて、今の自分から新たな自己を創出していく試みに他ならないように思える。
昨日も一つの曲を作ってみたが、一通り曲を作り終えてみた時に、それを作った自己はどの時点の自己なのかを考えていた。それは多分に、過去の自分であり、現在の自分であり、さらには未来の自分でもある。
それら三者は切り離せない関係を結んでいるがゆえに、その曲を作ったのは、三者の総体である今の自分だと言えるだろう。 昨日は、午前中に学習していた、楽譜の中で速度を示す表示方法、奏法を示す表示方法と強弱を示す表示方法を実際の自分の曲の中に適用してみた。午前中に目を通していた文献曰く、それらの表示方法が盛り込まれていないものは、楽譜としての整備がなされておらず、楽譜とは言いがたいものなのだそうだ。
その記述が後押しをし、それらの知識項目を自分の曲の中に適用するという実践を行っていたのが昨日だ。今私が使っている作曲専用のソフトには、様々な装飾記号が含まれており、理解の及ばない記号が無数に存在している。
これからは、過去の作曲家の楽譜を参照した際に、これまで試したことのない装飾記号に注目をし、それを自分の曲の中で試すという実践を積んでいく。昨日の午前中にグリーグの楽譜を眺め、昨夜にはバッハの楽譜を眺めていた。
未だかつて試したことのない装飾記号は何かないか、という意識を持っていると、また新たな発見をした。楽譜を眺める際にも、単にそれらを眺めるのではなく、自分なりの問いと仮説を持ってそれらを眺めてみると、無数の発見がもたらされる。
今日も仕事の合間にどこかのタイミングで、問題意識を持って絵画を眺める感覚で、過去の作曲家の楽譜に目を通したいと思う。2017/10/20(金)10:03 No.315: Return Favor to My Teacher All of a sudden, I recollected my old memory in my elementary school.
When I was a sixth grader, I wrote a journal and submitted it to my teacher every day.
My teacher always gave me a short comment on my entry and sometimes talked to me about what I wrote the day before.
I realize that his support was tremendous scaffolding for my writing skills. Without his support, I could not engage in writing like I do every day now.
I gave him my new book that was published last June. It might have been my unconscious return favor for his priceless support for me 20 years ago. 16:04, Sunday, 10/22/2017