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1634. 無能さと無知の果て


今日はとても充実した一日だった。このようにして日記を書く時間が全くないほどに学術探究に没頭していたが、夜の八時半を迎える今になってようやく振り返りの時間を設けることができた。

科学に対する疑義。おそらくそれは消えることなく、私の内側に今後もあり続けるだろう。

それは一つ健全な疑念であるように思えてきた。一方、今日は大学のキャンパスに一日中いながらにして探究活動を進めていたが、昼食前に図書館の中で、自分は科学者としての側面を持ちながら生きていこうと改めて思った。

科学者として生きようとすることの確からしさを疑うことは、もはや馬鹿げているように思える。仮にあと何度か科学者としての自己のあり方と生き方に疑いを挟むことがあったとしても、それらと向き合ってていことを通じて、やはり自分は科学者としてあり続けるだろう。

どうしても自分は科学的な探究をやめることができないのだ。この点については、これまで何度も何度も自分に問いを投げかけてきた。

しかも、大抵の場合、それらの問いは、自己を打ちのめすような質感を持つものだった。だが、何度そのような問いを投げかけても、自己が起き上がってきたのである。

もうそろそろ、自分の中にある科学者としての自己を認め、真に抱擁する時なのではないか、と思うに至った。一昨日も、昨日も、今日も、科学者としての自分の無能さを目の当たりにしてきたし、明日も目の当たりにするだろう。

自己の無能さが露わになる時に、笑うしかない自分が数年前から芽生え始めている。言うまでもなく、これは自己効力感という概念とほとんど関係のない事柄である。

その概念を持ち出して説明するところに今の自分はいない。自分の無能さを自覚するというのは、ある意味、自分の無知さを自覚することに他ならない。

いつからか、どんな方法でどこまで検証しようとしても、自分の無能さと無知さをひっくり返す結果は出てこなかった。人間は意味を構築する生き物であり、どれほど意味構築活動を積み重ねていっても、無能さと無知さの外に出ることはできないのではないだろうか。

そうであれば、私たちは意味を構築することを宿命づけられているのみならず、無能であり続けることと無知であり続けることを宿命づけられた生き物なのだと思う。今日も何度も何度も、自分の無能さと無知さに向き合っていた。

おそらく私は、無能さと無知さを自己から極限まで切り離そうと試みてきたがゆえに、それらは地球の外周を一周回ってきて再び自己に帰ってきたかのようである。それはとてもわかりやすい表現であり、その表現を飲み込んで見ると、肚まで落ちる。

なぜだか、自分はまた違う場所に辿り着いたような気がしている。無能さと無知の果てに足を踏み入れたことはあるだろうか。

その場所では、自己の無能さと無知さが事実としてではなく、真理として存在している。そして、その場所はとても静かであり、その真理に直面すると小さな笑みがこぼれる。

自己がいかに無能であり、無知であるかを叫び続けた結果、地球の外周を回って再びその叫びが自己に戻ってきた経験はあるだろうか。その声を噛み締め、肚に落ちた感覚を持ったことがあれば、私が体験したのはそれと同じである。2017/10/9(月)20:43

No.279: Peripatetic Soul In retrospect, I have lived in various places all over the world in the last 10 years.

One might ask: “Why are you moving around all over the world so frequently?”

My facetious answer would be: “Because my nationality is the earth” and “Because I hope to be a vagabond as a scientist, philosopher, and composer.”

However, the most serious answer would be: “Our soul is intrinsically peripatetic.” 14:35, Wednesday, 10/11/2017

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