数分前に、論文レビューが引き起こす何とも言えない恍惚感について言及した。そして、今朝は科学研究に対する疑義を投げかけている自分がいた。
両者を経た後に改めて、科学論文を執筆することが引き起こす形容しがたい寂しさについて考えていた。ぬるりと背中に張り付くような、一抹の寂しさが科学論文の執筆の中にある。
その寂しさの正体が何なのかをもう一度探っていた。その正体の一端は、実は昨夜の段階で見えていた。
昨夜、仮に人間の発達というテーマに絞ってみた時に、人や組織の発達に関心を持ち、そしてそれらの実践に取り組む組織人の中に、一体どれほどの人が学術論文を読みこなせるのだろうか、という疑問を抱いていた。
少なくとも自分が組織人であった時、学術論文など一度も読んだことがなかったのではないかと思う。また、人間の発達に関心を持ってからもしばらくは、学術論文というよりもむしろ、研究者や専門家が一般向けに発達理論を解説した書籍などに目を通していたように思う。
だが、これは後々に自分が発達研究に本格的に従事し始めてから気づいたが、一般向けに執筆された書籍というのは、人間発達の研究の成果のうちの氷山の一角を紹介したものに過ぎない。一般の書籍を通じて、人間発達に関する知見を獲得することには大きな限界があるのだ。
また、氷山の一角とはいえ、数百ほどに及ぶ発達理論の優れた書籍のうち、数冊程度しか日本で翻訳出版されていないことは、かなり嘆かわしい状況だと言える。これは人間発達に関する研究領域だけに限ったことではないだろうが、やはり組織人が学術的な研究成果の恩恵を享受するためにはいくつかのハードルがあるようだ。
これは訓練をしていないのであるから当然と言えば当然だが、端的に述べると、学術論文を読みこなせる組織人の人口割合は極めて小さい。特に、人間発達に関して言えば、それらの知見が英語空間で生み出されているものであるため、英語の論文を読みこなせる組織人というのは、ほんの一人握りだろう。
日本語の翻訳書と英語の専門書の間には、情報量の圧倒的な開きがあるが、実は英語の専門書と論文との間には、それに匹敵するだけの情報量の圧倒的な差が存在する。日本の発達理論を取り巻く現状、そして組織人の学術論文を読みこなすリテラシーの力量を考えた時に、自分が学術論文を執筆することの意義を問いただされたのである。
自分の内側には、英語で学術論文を絶えず書き続けたいという強い思いと同時に、日本の発達理論を取り巻く現状に何らかの寄与をしたいという思いがある。今は、これらの思いが対立している状態にある。
それがどこか、論文執筆をする際の寂しさにつながり、それは論文を書こうとする際に私の後ろ髪を引くのである。2017/10/8(日)17:04
No.276: Four Types of Validity One of the today’s lectures refreshed my memories about statistics.
To put it more precisely, I could solidify my knowledge of four types of validity: (1) internal validity, (2) statistical conclusion validity, (3) external validity, and (4) construct validity.
I had a vague memory about each definition. The lecture enabled me to bolster my knowledge not only of the definitions but also of some threats to each validity.
Because the topic of validity threats was quite intriguing to me, I will address each of them, relating with research on human development and learning. 18:40, Monday, 10/9/2017